2020年5月31日日曜日

鉄筋を買った

2001年に八郷に越してきて、2002年初頭から家をつくり始めましたので、すでに20年弱経ちました。
その間、世の中が少しずつ変化していることを、家づくりを通しても、感じることがあります。
例えば鉄筋は、2000年代初頭には、ホームセンターに行くと、フォークリフトで軽トラックに積んでくれて、お願いすると縄も掛けてくれました。
それがやがて、荷崩れしたなら自己責任(材木も同様)ということになって、積んではくれるけど、縄は自分で掛けなくてはならなくなりました。
10年ほど前からは、軽トラックに5.5メートルの鉄筋を積むことができなくなり(それ以前から、厳密に言えば違法だったようだけど、見逃してもらえていた)、ホームセンターの1トントラックを借りて運んでいましたが、久しぶりに鉄筋を買おうとしたら、1トン車も禁止になっていました。
「えぇぇ、レンタカーするか、運んでもらわないとだめってわけ?」
ところが、ホームセンター「山新」では、店頭には置いてないけれど、2トントラックを貸し出してくれることがわかりました。


というわけで、鉄筋を買いに行きました。
嬉しいことに、鉄筋は積んだだけでなく、縄をかけた状態で引き渡されました。
「鉄骨や砕石に比べたら、軽いからずっと楽だ」
と運転した夫。
鉄筋はゆっさゆっさと揺れますが、苦にならないようでした。


トラックは座席が高く、いつ乗っても乗用車とは違う楽しさです。


家に着きました。
  

見事な結び。
しっかり結ばれているのに、簡単に解くことができました。


鉄筋は、ユンボで降ろします。1束は、手でちょっとずらすこともできない重さです。
買ったのは、直径10ミリを120本、直径13ミリを40本でした。


鉄筋を下ろしたら、すぐにトラックを返しに行かなくてはなりません。


1時間は貸し出し無料ですが、往復で1時間半かかってしまいました。
もちろん、追加料金などは取られませんでした。ありがたいことでした。






2020年5月30日土曜日

いつまで続く、家づくり


2年後に次男一家が東京から引っ越ししてくることになっています。
既存の作業棟の二階に住むかという話もありましたが、ホールの吊り扉の構造など、建物全体の気密性はいま一つ、二階には水回りもあって改造はなかなか難しい、というわけで、母屋の北に小さな家を建てることにしました。
まず、自生していたシラカシや、枯れ残っていた松など数本伐りました。
写真で枝を落としているのは、15年ほど前に200円で買ったケヤキの苗が育ったものでした。


松以外は薪にします。
玉切りにしたり割ったりするのが大変ですが、何年分かの薪ができます。


東南東から西北西に細長い家をつくるのですが、敷地は傾斜していて、計測すると130センチほどの高低差があります。
コンクリートの基礎は、土地の低い方はそのまま砕石を敷いて型枠を設置、手前の高い方は、これから少し掘ります。

さて、敷地へは、門の屋根が飛び出していて、コンクリートミキサー車のような背の高い車は入れません。そのため、コンクリートを打つときはポンプ車を頼み、長いホースでミキサー車からコンクリートを飛ばすという手はずになります。

母屋のコンクリート打ちでポンプ車を頼んだ時の様子(2005年9月)

本来なら4度に分けてコンクリート打ちをしたいところですが、ポンプ車の値段も上がっていて、1回に5万円ほどかかってしまいます。何度も頼むとそれだけ経費がかさむので、2度で済ますように型枠を工夫してつくっています。
この古い写真にあるように、太陽光で暖房するため(母屋はOMソーラーを使ったけれど、今回は「そよかぜ」を使うつもり)、一度打ったコンクリートの上に断熱材を敷いてもう一度、蓄熱板用のコンクリートを打たなくてはなりません。


測量と整地が終わったら、コンクリート基礎を打つ準備にかかります。


12ミリ厚の合板でパネル(型枠)をつくり、それを現場で繋げていきます。


型枠には、南洋材ではなく、国産の合板を使っています。
これは、大工さんが買いすぎた合板をネットで安く売っているのを見つけて、手に入れたものです。


基礎は、垂直に立てた型枠の天端が、水平になるようにつくらなくてはならないので、地面の高さを微調整しながら、パネルを立てていきます。


作業し易いよう、足場もつくりました。


この上に家が建つと、どんな感じになるのでしょう。


基礎コンクリートは、外観は真直ぐですが、内側で下の方の壁厚は30センチ、上は12センチと、厚みを変えます。


この写真の右半分ができたら、左半分の土を動かして、作業続行です。





2020年5月28日木曜日

ほっと一息

北海道ののらさんから、「のらつうしん」が届きました。
封筒がちょっと膨らんでいたので、あっ、マスクだなと開けると案の定、手づくりマスクが入っていました。


初めて手にする手づくりマスクです。


しかも、私が好きに決まっている、猫柄でした。
着け心地も上々です。


つうしんは約1か月分届きますが、4月から5月にかけては、北海道は雪が降ったり、気温が30度を越えたり、おそろしく気温差のある1か月だったようです。

さて、「のらつうしん」のタイトルの脇に、時々のらさんのイラストが描かれているのですが、とくにタコがかわいい、今回も何枚かあったので、一部ご紹介します。

 


この日、のらさんは浜でガラス浮きを見つけたのだけれど、割れていたようでした。
文にあるいさりとは、タコに似せた漁具で、以前のらさんからいただきました。


今年は、子どもの日も寂しいものでした。








2020年5月27日水曜日

麦秋


麦が色づく季節になりました。


そろそろ借り入れの時期を迎えているのは、大麦です。


まだ、緑が残っているのは、ちょっと遅れて実る小麦です。


このあたり、毎年小麦の収穫時期と梅雨が重なって、雨が続くとうまく収穫できないので、みんな苦労しているようです。


麦の収穫が終わると、夏本番が始まります。






2020年5月26日火曜日

ヤオの頭に巻く布

ヤオの頭に巻く布を持っていたのは覚えていました。
でも、端に刺繍があるだけなので、単に藍色の布として、上着にしたり、パンツの部分に使ったりと、素材として重宝していたので、切り刻んで使ってしまったと思っていました。


ところが、戸棚の中に一枚、完全なものがありました。
というわけで、しつこいようですが、またヤオの民族衣装の続きです。
50センチ幅に織った布を藍で染め、ターバンに仕立てたものを計ってみると、5メートルありました。
布の両端に刺繍してあります。


模様にはそれぞれ名前があり、下から「鋸」、「折れた木」、「鋸」、「猫」、「猫」と「銀の花」、そして「猫」の順に刺されています。
タイやラオスのサラブリ県のヤオは、「鋸」文様の片側にだけステムステッチ(線に見えるところ)を刺しますが、これは「鋸」の両側にステムステッチがしてあるので、ラオス北部のヤオのターバンだということがわかります。


二つに折って頭に巻くので、布裏は原則として見えないのですが、糸がきれいに始末されています。


左が裏、右が表ですが、模様にほぼ変化がない、クロスステッチのところだけ裏表がわかりますが、裏も表としても通用するくらいきれいです。


「銀の花」は大小ありますが、これは大です。
「猫」は、どこが猫かと訝しく思いますが、「小さな猫」、「曲がった猫」、「猫の爪」などいろいろあります。
猫のほかの動物文様は、手長猿、蜘蛛、蟹、子豚、ミズスマシ、虎、そして龍です。


手織り布ですから、端はとてもほつれやすいものですが、美しく始末されています。






2020年5月25日月曜日


久しぶりに海に行きました。


ここは道路から見ただけ、浜には降りませんでした。
手前の道路わきのテトラポットの上の2011年3月の津波で乗り上げた木がたくさんありますが、塩水に浸かったせいか、どれも分解していません。
みんな真っ白に、風化しています。


親子が自転車を停めて、とても楽しそうに海を見ていました。





2020年5月24日日曜日

ヤオの上着

「ヤオの刺繍」で、上着と書きましたが、写真だけでは丈もわからず、毛糸の襟はついていてもブラウスにも見えたかと思います。


じつは、酔狂にも上着も持っているのです。膝下くらいまである長い上着なのです。

ヤオの衣装の中心は、何といっても刺繍したパンツです。上着もパンツをどう美しく見せるかという小道具にすぎません。


毛糸のポンポンの襟の下には、着ているときには誰にも見えない刺繍があります。


そして、前身ごろと後ろ身ごろには深いスリットが入っていて、スリットの終わりに房がぶら下がっていますが、片方はなくなっています。
40センチ幅に細く織った布をはぎ合わせたり、脇や裾を縫うのにはミシンを使っていますから、完全な普段着だったのでしょう。


破れを3か所ほど、大きく継ぎあてしてあります。



どれも裏を見ると破れはきれいに始末しないで、そのままになっています。着続けるために修理したのではないのでしょう。
たぶん、着古して、破れて捨てようと思っていたものが、チェンマイの民族衣装を扱っているお店に持って行けばお金になると知り、適当に繕って持ち込んだに違いありません。

タイ人の友人がチェンマイで民族衣装の店を出していましたが、店を開ける前からたくさんの山地民の人たちが衣装や道具などを持って待ち構えていました。
何でも買ってあげればいいのに、友人は容赦なく査定して、
「そんなものは要らない」
と平気で言ってました。

さて、ヤオのパンツははくために手に入れたもので、愛用しましたが、いくらなんでもこの上着を着る勇気は、はなからありません。引き出しの中で、無駄に場所を取っているだけです。
でも、嬉しいのは貴重な文化遺産を分捕ったりしたのではないこと、捨てようと思っていたものを手に入れることができたことです。


袖口は、機械織りの布を細くパッチワークした先に、紐に金属のコイルを切ったものを通して縫いつけています。
こんなところが、民族衣装の面白いところです。









2020年5月23日土曜日

ヤオの刺繍

 

タイ北部の山地に住むヤオのパンツです。


ヤオの人たちは綿を育てて糸を紡ぎ、約40センチ幅の布を織り、藍で染め、刺繍した布2枚と無地の布をつなぎ合わせて、パンツをつくります。
これは、私がゴムを入れて履きやすくしていますが、普通ゴムは使いません。
サロンのように、畳んではさみ込んで腰で留めて、その上に上着を羽織り、帯を巻きます。

『Peoples of the Golden Triangles』より

これで一式、タイやラオスに住むヤオの女性の基本的服装セットです。
長い上着は腰でゆるやかに手繰って帯で調節し、両端に刺繍した長い布を頭に巻きます。

『Peoples of the Golden Triangles』より
1980年ころは、女性たちは上着の下に、Tシャツやらシャツやら、いろいろなものを着ていましたが、伝統的にはどんなブラウスを着ていたのか、あるいはブラウスではないものを着ていたのか、何も着ていなかったのか、わかりません。
ちなみに、タイ北部やラオスは冬の間、朝夕は3度くらいまで気温が下がることもあります。


ヤオも、他の山地民同様、刺繍の模様には、意味があります。
裾から、「動物除けの竹垣」、「折れた木」、「竹垣」、「折れた木」、「竹垣」と続いていて、模様を分ける線も含めてすべてをステムステッチで刺しています。


その上の「鋸」、「大きい花」、「虎の爪」などは、クロスステッチで刺しています。
タイに住むヤオによくみられるクロスステッチですが、ヤオ人がタイでモン人に出会ったころ(100年くらい前?)から取り入れたもので、この部分には好きなショッキングピンクの刺繍糸がふんだんに使われています。


ヤオの刺繍で、私がいつも驚くのは、裏の美しさです。表と変わりません。

『Peoples of the Golden Triangles』より

普通、ヤオの女性たちは裏面を見ながら刺繍するそうです。
ステムステッチはともかく、裏を見ながらクロスステッチができることに驚いてしまいます。

『FROM THE HAND OF THE HILLS』より

何故、ヤオなど山地に住む少数民族は、手の込んだ織物や刺繍で身を飾ったのか、それは群雄割拠する少数民族の中で、自分のアイデンティティーをはっきり示す必要があったからと言われています。
また、刺繍など、文様で布を埋め尽くしたのは、意味を持った文様をちりばめて魔除けとしたからとも言われています。
ヤオはもともと住んでいた中国、そして追われて移住してきたラオス、タイ、ビルマ、ヴェトナムなどに、小さなグループにわかれて暮らしています(した)。
刺繍するのに選ぶ模様や、刺繍糸の色は、個人によっても違いますが、地域によっても違います。時代を経るうち、地域性が出てきたのです。

私の持っているパンツは、タイに住むヤオのスタイルで、ショッキングピンクと呼ばれる濃い桃色が多用されています。
ショッキングピンクは、化学染料がタイの山地に出回るようになった20世紀初頭から、これまではなかった色として、ヤオだけではなく、モン人やリス人など多くの山地民に愛された色です。


私は、ラオスに住んでいたヤオのパンツも持っていました。
八郷に来てからも見た覚えがあるのですが、どこへ紛れ込んだものか、もう10年以上探しているのに見つかりません。
上の写真がラオススタイル、私の持っているものとよく似ています。


さて、これはヴェトナムに住むヤオのパンツの、刺繍部分です。
模様もラオスやタイのものとは違いますが、大きな違いは、手織りではなく、工場製の布に刺繍していることです。綿の栽培をやめた人たちなのでしょうか?
地布は、藍でなく黒で染められていて、刺繍糸は木綿ではなくシルクです。

東南アジアには、ミロバランの木があちこちに生えていますが、ミロバランの実は、布を黒に染めたいとき、堅牢な染料となります。ありふれた木だし、比較的簡単に染められるので、よく使われます。
余談ですが、ヴェトナム戦争時に、アメリカ軍に徹底抗戦したヴェトナムのヴェトコン、ラオスのパテト・ラオ、カンボジアのクメール・ルージュたちはみな、申し合わせたようにまっ黒い服を着ていましたが、あれはミロバランの実で染めていたものです。

この布は工場で幅広に織られた布なので、細く切る必要がないのですが、32センチ幅に切って刺繍してあります。
  
左は機械織りの布、右は手織りの布

ヤオの刺繍は、布目を活かして刺します。


ということは、工場製の布は手織りの布より目が詰んでいるので、刺繍は必然的に細かくなります。


その細かさは驚くべきもので、この蘇芳で染めたと思われる赤糸の刺繍の一番長い線が2センチです。
ほとんどはステムステッチですが、肉眼では気づかなかったのですが、下から二段目の模様は、クロスステッチに見えます。
  

「小さな手長猿(卍)」や「銀の花」など、ヤオ固有の文様が見えますが、こぎんのように埋めた模様は、タイやラオスでは見かけないものです。


ネットで、よく似た刺繍の、ヴェトナムのヤオのパンツを見つけました。


これは、藍染めの布に、シルクの刺繍糸で刺繍しているそうですが、手織りなのか機械織りなのかはわかりません。
誰も綿を栽培していなかったのなら、機械織りの布かもしれませんが。
ちなみに、黒く見えるところ、藍に黒という目立たない色で刺繍しているところが、ヤオの憎いところです。


そして裏。
ヤオにしては珍しく、裏で糸の始末をせずに、色糸が行きかっています。


ベタっと色が見える部分の裏は、地布がまるで紋織りの布のように、でこぼこに盛り上がっています。
ヴェトナムに住むヤオたちのことを、私はほとんど知りません。

『Peoples of the Golden Triangles』より

さて、今は消えてしまっていると思われますが、1980年代初頭まで、タイに住む山地民たちは、普段でも民族衣装を着て暮らしていました。

『Peoples of the Golden Triangles』より

写真で気づくように、ヤオの女性は、他人に髪の毛を見せるのを嫌がり、いつも布を巻いています。髪を見せることは、裸を見せる以上に恥ずかしいことという文化を持った人たちなのです。

アン・ゴールドマン著、文芸社、2011年

東南アジアだけではなく、ヴェトナム戦争の終結後、難民となってラオスからタイに流入したヤオたちは、第三国であるアメリカ、カナダ、フランスなどに定住しました。
この本は、ラオスからアメリカに渡ったヤオの民族衣装事情を記した本です。
15から20世帯ほどで暮らす山奥の生活から、複雑な多文化社会、自動車や工場のある環境へと投げ出されたヤオたちは、民族衣装が必要ないと考えた瞬間もありましたが、新天地でもアイデンティティーを再構築するために、冠婚葬祭には民族衣装は欠かせないと思い直し、今では民族衣装の国際的な流通経路などもできているそうです。

『Peoples of the Golden Triangles』より