2021年9月30日木曜日

瓦工事がはじまりました


先週、環境創機から集熱箱の枠の金物が届き、Kさんが説明に来てくださいました。
そのおりに、瓦屋さんと板金屋さんも来てくれて、金物での集熱箱作成、集熱箱と瓦との取り合いなどについて、打ち合わせをしました。


そして今日、瓦屋さんが来てくれました。


瓦屋さんは、ルーフィングを敷いた上に、瓦桟を打ちつけました。これで瓦を葺く下準備ができました。


複雑な屋根なので、雨仕舞がもっとも大切、また北側のガルバリウム屋根との取り合いもあります。
どんな風になるのか、とても楽しみです。



 

2021年9月29日水曜日

9月29日

9月29日は「来る福」と読み、「日本招猫俱楽部」が1995年に制定した、招き猫の日です。
年3回発行される会報『福の素』はこの数年遅れ気味ですが、9月29日を含む数日間、各地で「来る福祭り」が開かれるので、その前には必ず届いていましたが、今年は届きません。
まぁ、催しものはコロナで開くことができないし、今では紙の会報などなくてもネットで情報の得られる時代ですが、こんなことは今までになかったので、どうしたのか、ちょっと気になります。


というわけで、最新の『福の素』を見てみると、あらあら、昨年の9月発行です。
年4回発行が原則ですが、なかなか届かないと思っていたら、年1回のペースになってしまっていました。


私は1996年に会員になっていますが、「日本招猫俱楽部」は1993年に結成されています。当時は巷で招き猫を見かけることもまれで、そんな中『福の素』には招き猫の情報がたっぷり詰まっていて、イベントの案内などもあり、会員の投稿ページも多くて、夢中で隅から隅まで読んだものでした。
会員はずいぶん入れ替わっていると聞きましたが、今はどのくらいいるのでしょうか?


今日は招き猫の日、自分一人で招き猫を愛でました。

追記:

忘れられたかなと連絡してみたら、今年もイベントは中止、そして復刻版も延期、『福の素』の発行は遅れているとのことでした。





2021年9月28日火曜日

壁づくり


壁の厚みを出すために、枠を取りつけているところです。
枠の奥行は120ミリで、柱と同じ寸法ですが、外に55ミリずらすことによって、55ミリ広がり、厚みのある断熱材を入れることができることになります。


奥行き90ミリの間柱の外側は、柱や梁、土台と面(つら、同じ面)になるように留めつけ、この幅で断熱材が入ることになります。
間柱は、半間を2分する割合で立てますが、独立して立てないで額縁の柱にくっつける分は、切り落とした端材を集めてきて、継ぎ足しながら使いました。


独立して立てる間柱は、もちろん継ぎ足したりしないし、厚みも30ミリではなくて、45ミリ厚みの材を使います。
間柱は耐震材としての役割もあるため、母屋では上下にホゾ穴を開けて、それにはめ込みましたが、この家の場合、そうすると204センチの長さが必要という計算になりました。
204センチでは、4メートルの材から1本しか取れないのでもったいない。そのため、上部は、30ミリ厚みの横材に間柱をビス留めしてからはめ込むことにしました。すると、間柱はしっかり留まるし、4メートルの材から間柱が2本取れて、1ミリほど余るだけ、コストパフォーマンスは、最高になりました。
柱が多いし、柱や梁のホゾは深いので地震には強い、構造的には問題ありません。


外の板壁は、30ミリ厚みの本実(ほんざね)の板を使います。
上はもう決まっているので、上から張っていくことにしました。
一番上にくる板は、サネを取って、頭を平らにしました。


1枚だけ張ったところです。


夫が足場板を動かして足場をつくってくれたので、作業は格段にしやすくなりました。





2021年9月27日月曜日

霧の朝でお茶を濁して

昨日は、「書くことないなぁ」とブログを休んでしまいました。
今日はこれから作業、そのうち書くことが出てくると思いつつ、ちょっと前の霧の朝の写真を載せてみます。


こんな霧がある朝は、20メートルくらい下の田んぼのあたりから見ると、雲がかかっているように見えるに違いありません。


霧は、見ている間にも、薄くなったり濃くなったりします。


そして、だんだん薄くなって消えていきました。


 




2021年9月25日土曜日

壁づくりに着手

屋根工事は、いよいよ板金屋さんにブリキの集熱箱をつくってもらう段階に来ました。
今日、環境創機のKさん、瓦屋のさくらいさんと板金屋さんがきてくれます。

 

さて、屋根はそんな段階ですが、壁をつくりはじめました。
真壁づくりで柱を隠さないで見せる構造、断熱材をしっかり入れたいので、120ミリの柱の厚みでは足りないので、壁のところは55ミリ外に出るように枠を回します。
上の写真では真ん中の細いところが壁になるのですが、上側に1枚木を取りつけたところです。ところが、家づくりにはよくあることですが、作業の手勝手が悪いところがいっぱいあります。
ここも、脚立を正面に置きたいのですが置けません。


足元ではこうなっています。脚立を左端まで寄せたところで寄せきれないのですが、台所の排水パイプが邪魔をして、脚立を左端まで寄せられません。私は右利きですから、この脚立の上に乗っての作業はやりにくいことこの上ないわけです。
外はもっと地面が下がっているし、地盤も柔らかく、しかも斜めになっているし、足場も邪魔するしで、外に高い脚立を置くというのも、難しいものがあります。


また、端ではなく真ん中あたりでは、脚立は一応好きなところに置けますが、外が一段と低くなっているので、脚立に乗ると、高さに目がくらんでくらくらします。
外の、今ある足場を使いやすいように組み直した方がよさそうですが、足場の組み立ては力作業、私にできることではありません。


枠をつけ終わったところを外から見るとこんな感じになります。
ここに厚みが90ミリの間柱を立て、外からは本ざね加工した30ミリ厚みの壁板を貼り、その内側に断熱材を入れます。壁の断熱材は、ウールです。

2年ほど前に、材木をあらかた買っておいてよかった、コロナが影響してアメリカでの木材需要が高まり、輸出向けの木材が少なくなって日本での外材が高騰し、それにつれて国産の木材も高騰、建設業界ではウッドショックと呼ばれていますが、材木の値段は、コロナ以前の二倍から三倍になっているようです








2021年9月24日金曜日

漁師町の女性


どっしりと構えた女性の土人形は、背負子と思える、高く伸びた部分のある籠を脇に置いて、網を膝に掛けています。網は漁網に見えます。
この人形が何ものかを知る手掛かりは、台座に書いてある、ILFRACOMBEだけです。イフラクームは地名、イギリスのロンドンからまっすぐ西へいったあたりにあります。


イフラクームは海に面していて、人形から想像できる通りの漁港です。


イングランド島の尻尾みたいなところに位置し、西に海が広がっているので、夕焼けが素敵です。


イギリスに行ったことがないので、この土人形がイフラクームでつくられたものか、ほかの場所でつくられたもののイフラクームで売られていたのかわかりませんが、籠といい漁網と言い、見事なつくりです。


底から内部を見てみると、籠のあたりは後からつけたのか、全体は型を使って、粘土板を型に貼りつけて成形したことがわかります。
右は、フランスのプロヴァンス地方の土人形、こちらは手びねりなので、底に空洞はありません。


籠もさることながら、漁網は見れば見るほど、土に見えません。ここだけ、本当の布を巻きつけてあるとしか思えなくなってきます。


これがお土産ものだったとしたら、なんと精度が高いのでしょう。
季節は冬、コートを着ても、スカーフを巻いても寒さが身に染みますが、当時の女性にズボンをはくという選択肢はありませんでした。
漁師町の息遣いが聞こえてくるような土人形です。






 

2021年9月23日木曜日

謎の建物の正体

検診で病院に行った帰りに、謎だった建物を見てきました。


この建物が建っているところの家で話を聞こうと、車を停めて、正面から見たら、訊く前に何だかわかりました。


卍の印があるので、薬師堂でした。
茨城県には小さな薬師堂がたくさんあります。一体、薬師堂は昔はどんな役割を果たしていたのでしょう?
子どもの病なども多かったので、薬師堂の名の通り、薬師如来を祀って、病気平癒を願ったのでしょうか。
この、ちいさな薬師堂が、水戸あたりの薬師堂の地図に載っているかと調べましたが、地図には載っていませんでした。


先日、桧山薬師堂を訪ねたおりも、その途中でいくつもの薬師堂を見かけました。


薬師堂らしい薬師堂だけでなく、畑の一角に、まるで物置きにしか見えない小さな薬師堂もありました。


さて、もう一つの不思議な建物の敷地に入ってみました。斜面に塔が建っていた、牛を飼っていたと見られる家です。
自然界には、まっすぐな線も平らに見えても平らな土地もありません。
ところが、この三方を建物に囲まれた中庭はまっ平らで、美しく芝生ならぬ牧草が生えていました。そして、中庭に木は1本もありません。日本で、庭に木が1本もない家は、まず無いのではないかと思われ、不思議な気持ちでした。建物はどれも古いものの、きれいに整頓されていました。よく、家の周りに植物の枯れた植木鉢とかプラスティックの箱とか、汚いものが積み上げてある家が多いのですが(我が家も耳が痛い)、この中庭に目を汚すものは何もありませんでした。
かねぽんさんが調べてくれた通り、もう使ってない気配も感じられましたが、建物の一つに軽トラックが停めてあり、どこも手入れがあまりにも行き届いていたので、すぐに不法侵入しているような後ろめたい気分になりました。それに、この家の山側の家の窓もこちらに向いて開いており、実際は誰も見てなかったと思いますが、三方から見られている気がしました。そのため、車からも降りず、写真も撮らず、早々に退散してしまいました。
帰り際、あの、道路から見上げると不思議な建物がどうなっているか見に来たことを思い出し、「あれかな」と見ると、庭からは、ドアのない、まったく普通の倉庫に見え、中には、作業に使う車両などが、整然と収納されていました。
牧草の庭の中ほどにはベンチが一つ、田んぼに向かって置いてあって、軒下ではないところに置かれていたのは、そのベンチだけでした。







2021年9月22日水曜日

ドイツの切手


従妹のきょうこちゃんが、正御影供(しょうみえく)について手紙をくれたとき、家にあったからとドイツの切手を同封してくれていました。以前送ってくれたマトリョーシカの切手を私が喜んでいたからでしょう。
切手に描いてあるドイツ語が読めないのでネットで調べようとしたら、すごいサイトを見つけてしまいました。
ドイツの切手、A Virtual Museum of German Postage Stamps」というサイトで、ドイツの切手について詳細に知ることができます。
1849年にドイツで初めての切手が発行されてから、2016年発行予定分までの切手を、解説つきで、まるまる見ることができます。
第一次世界大戦で戦勝国となって、ドイツが占領した地域で発行された切手、ドイツが植民地にした国の切手、第二次世界大戦で敗戦国となりドイツが分割占領されたときの切手、東西ドイツ分裂後の、西ドイツの切手と飛び地だった西ベルリンの切手、東ドイツと統一後の切手などなど、すべての切手が写真つきで網羅されています。
しかし、1934ー1945年の、ナチス占領下のナチスのシンボル入りの切手はその性格上、写真を載せていません。

切手と言えば、花や鳥などの切手やクリスマスの華やかで美しい切手に、ついつい目がいきますが、このバーチャル博物館を見ると、普通切手や地味な記念切手こそが情報の宝庫、歴史の証人であることがわかります。


例えばこの切手は、1995年にベルリンで、気候変動枠組条約第一回締約国会議が開かれるのを記念して発行された記念切手で、汚染されて灰色になった地球にかかる虹を描いたものです。
1997年には気候変動枠組条約が京都で結ばれましたが、あれから四半世紀、地球環境は悪化の一途をたどっています。


シリーズで発行されている、1972年発行の普通切手。
これまで漫然と見ていましたが、どれもが「事故に注意」という切手で、うっかり屋根から落ちた私にぴったりでした。


ヨーロッパと書いた切手は、「ヨーロッパは一つ」という意味を込めて、1961-1970年に発行された切手です。
例えば上段の真ん中の切手は、糸で編んだ太陽が描かれています。周辺諸国を敵として戦ったドイツならではの、ヨーロッパはこうありたいという、願いを込めた切手だったのです。


ちょっとほかの切手と雰囲気が違う切手は、第二次世界大戦後、ソヴィエト占領区で発行された切手でした。なるほど、CCCPの匂いがします。第二次世界大戦後、ドイツはアメリカ占領区、イギリス占領区、ソヴィエト占領区に3分割されています。


時代が前後しますが、1941年、ドイツ占領下のウクライナの切手には、ヒットラーの肖像が使われています。


私の持っている切手は、一番古いもので1921年発行、一番新しいもので1997年発行の切手でした。


地味な切手にこそ情報がありますが、クリスマスの切手などもそれはそれで素敵です。


さて、肝心のきょうこちゃんからもらった切手は、1958年に発行された、青少年育成のための基金を目的とした寄付金付きの切手で、テーマは民謡、2種類のうちの1種類とわかりました。18世紀の民謡、「クアプファルツから来た漁師」の1シーンでした。
2種類のうちのもう1種類は、「キツネがガチョウを盗んだ」の1シーンで、日本では「こぎつね」という名前で小学生唱歌になっている歌です。

東ドイツの切手

ドイツの切手バーチャル博物館には、東ドイツの切手はありません。
私の手元にある東ドイツの切手は、外貨獲得のためにつくられた、大型のカラフルな切手ばかりです。東ドイツ、ハンガリー、ルーマニアなど、当時東欧諸国でつくられた外貨獲得目的の切手は生活感の全然ないものばかりで、ドイツ切手バーチャル博物館でも、取り上げる必要なしと判断したのかもしれません。
生活に必要な普通切手も絶対にあったはずですが。

アメリカやフランスの切手にも、同じような切手バーチャル博物館があるかどうか調べましたが、残念ながら見当たりませんでした。

私は、ドイツの切手だけでも200種類以上、アメリカの切手など、切手帳1冊分持っています。どうしてかって?
もともと切手好きで、訪れた国の郵便局で、よく切手を買っていました。住んでいたタイでは、記念切手をまとめた冊子が、毎年つくられていて、購入していましたが、タイの友人からも、たくさんいただきました。
また、私が働いていた職場は、数か国に現地事務所を持っていました。コンピュータがなかった時代は、急ぎの報告は電話かテレックスでしたが、ほとんどは手書きの業務連絡だったので、いろいろな国から届いた封筒に貼られた、いろいろな切手を目にする機会がありました。

ソマリアの切手

ソマリアの切手などはすべてサイズが大きく、しかも1枚の額面が安いので国際郵便だと何枚も張らなくてはならず、封筒の裏表にびっしりと切手が張ってあって、封筒が見えなくなっていたくらいでした。
業務連絡はファイルして保管しますが封筒は捨てます。私は捨てられた切手を拾っていましたが、そのうち、誰かれとなく机の上に置いておいてくれるようになりました。海外出張した際、お土産に新しく出た記念切手などを買って来てくれる人もいました。
また、私の職場では古切手は集めていませんでしたが、寄付のつもりで送ってくださる方がいました。前もって電話があったときは、切手を集めている団体を紹介しましたが、送りつけられた古切手は、古切手を集めている団体に転送しました。
転送の前に、私はその中から自分が持っていない切手をいただき、いただいた分、お金で自分の職場に寄付し、それから転送していました。
古切手は封筒ではなく、ダンボールで届くことも、よくありました。どこからどう集まったものやら、小分けにして家に持って帰って選り分けたものの、仕事が忙しいときは、デスクの足元に切手入りの段ボール箱が積んであったこともありました。
いただいた切手は、水に浸して紙から剥がし、よくすすいだら雑巾などに挟んでざっと水分を取り、当時は分厚かった電話帳に挟んで乾燥させてから、切手帳にまとめていました。
3冊ほどあった電話帳はどれも、水分で紙がチリチリになっていました。

こうして、1950年くらいからの日本切手はほとんど、外国の切手もそこそこ集まったというわけでした。

北朝鮮の切手

また、私の切手好きを知っている同僚が、交渉相手の政府などからお土産として貰った切手帳をくれることもありました。
というわけで、珍しい北朝鮮の切手なども持っています。



 

2021年9月21日火曜日

友だち?

M+MのMちゃんが隣に引っ越ししてきてから、ジャック・ラッセルのトビがときおり一人(一匹)で遊びに来ます。


そんなとき、トラはすぐ気づきますが、トビはトラがいることに気づかないときもあります。上の写真、トラはトビに気づいて尻尾を膨らませていますが、トビはまだ気づいていません。
トビは、トラに気づけばすぐ近づきます。


犬たちと仲良く育ったトラですが、よその犬には慣れません。
でも、怖がってはないのか、トビがいても、トビの来ない場所に逃げ込もうとはせず、悠々としています。


トビは仲良くしたいのか、ただちょっかいを出してみたいのか、間合いを詰めていきます。トラの方はときおり警告音を発し、近づきすぎると、
「ふぅぅぅっ!」
と威嚇します。


近づくと猫パンチを食らうので、トビは慌てて離れますが、また近づきます。


無言のにらみ合いがしばらく続きましたが、


とうとう、トビが吠え始めました。吠え始めると止まりません。
へたに近づくと両方が積極的になるので、遠くから見ているだけですが、鳴き声を聞きつけたMちゃんが来て、やっと対決が終わりました。