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| 色絵鯛猫皿、明治 |
2週間前に、『
猫のポット』について書いたとき、hattoさんが、三重県北部地方の萬古焼きの古いものの中にはとても面白い焼きものがあった、私の好きそうなポットもあったと、『ここはばんこ焼のまち!』(内田剛一監修、BANKO 300th実行委員会発行、2018年)という本を紹介してくださいました。
萬古焼きといえば、商店街のお茶屋さんで必ずといっていいほど置いていた(売っていた)、紫泥の急須のイメージがありましたが、それ以上のものではありませんでした。
その萬古焼きが、珍しい発祥の仕方をした、個性的な焼きものだったことがわかるのがこの本です。
焼きものの発祥と言えば、よい土が採れて、茶碗、甕、すり鉢、ほうろくなど、近隣の人々の生活用具の需要がある場所ではじまったというのがほとんどです。
ところが、萬古焼きは違いました。伊勢国桑名の豪商であった沼波弄山(ぬまなみろうざん、1718-77)が京焼きを手本に作陶を開始、いわば個人的な趣味で設立した窯だったのです。
沼波弄山は小さいころから茶道に親しんだ人で、京焼きの見事な写しをつくることから始めましたが、洋書解禁の令(1720年)後に入ってきた書物で異国の焼きものを目にすると、それらに魅せられて、異国風の斬新な模様や形の焼きものをつくるようになりました。その異国情緒のある焼きものは、鎖国下で、風流人たちの人気を集めましたが、沼波弄山の死によって、窯は廃絶されました。
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| 森有節が考案した急須に木型 |
1832年、桑名の古物商の森有節と弟の千秋は、萬古焼きを再興しようと発祥の地に窯を築きました。
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| 森有節の考案した桃色の釉薬、明治 |
森兄弟は造形的才能に秀で、研究熱心でもあったため、さまざまな技法を編み出しました。再興当初は古萬古の作風を再現していましたが、やがて時代を先取りするような表現をいくつも編み出し、人気を博していきました。
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| 水谷孫三郎作、亀の置物、明治 |
明治に入ると、萬古の職人たちはパリ万博や内国勧業博覧会、京都博覧会などに作品を出品して高く評価され、いくつもの賞を取りました。
さて、嘉永年間に、四日市市の大地主で村役であった山中忠左衛門は、水害に苦しんでいる困窮民をなんとか救いたいと思案していました。
忠左衛門は有節萬古の人気に注目、焼きものを地場産業にしようと、1853年(嘉永6年)に邸内に窯を築きました。人々に陶土や道具を与え、自分が体得した技術を惜しげもなく教え、やがて1873年(明治6年)には、焼きものの量産体制を確立しました。
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| 色絵面土瓶、明治 |
四日市港が整備され、輸送網が発展すると、海外向けの製品を考えて製作し、販路を海外へと向けて行きました。
それら、輸出向けにつくられた製品が、猫ポットに通じるものとhattoさんが教えてくださったものでした。
なるほど、発想は同じ、そしてそれらはとってもみごとなポットや土瓶たちでした。
遊び心満載、ヨーロッパで熱狂的に受け入れられたであろうことが、容易に想像できました。
萬古と言えば急須を思い浮かべますが、じつは市場に出回っている土鍋の80%は萬古焼きで、現在では海外にもたくさん輸出しているそうです。
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| かもしか道具店のごはんの鍋 |
本のページをめくると、なんと我が家のご飯鍋が載っていてびっくり、萬古焼きとは知らずに使っていました。
もしや、我が家のほかの土鍋も萬古焼きかしらと、気になって調べてみました。
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| 土楽窯の黒鍋と無印良品(古伊賀)の土鍋 |
案の定、手前の黒鍋も、奥の無印良品の土鍋も伊賀の焼きもの、つまり萬古焼きだったのでした。長年愛用しているのに、土鍋たちのふるさとのことを考えたこともありませんでした。
もっとも、土鍋の方も、あえて萬古焼きのふるさとでつくられたものであることを謳っていないので、萬古を飛び出した新しい焼きものという意味を込めて「伊賀焼き」と言っているのかもしれませんが、江戸時代に山中忠左衛門の尽力で四日市に窯が築かれ、量産体制が整わなかったら、これらの土鍋はなかったと思われます。
今となっては出自不明ですが、このお櫃もたぶん萬古焼きだと思われます。
そして、我が家のいつものそうめんや冷や麦も、萬古の町四日市でつくられているものでした。
萬古の町は、私にご縁のある、お世話になっている町だったのです。
追記:
鳥の土瓶や急須、もう少し写真を載せておきます。