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2020年3月9日月曜日

プラテーロの村


笠間の町はずれ、Nobu'sギャラリーで、kuskusさんの「プラテーロの村」展が開かれています(15日まで)。
部屋全体が一つの物語になっていて、とても素敵でした。


Nobu'sギャラリーは、入り口をのぞいて全部壁ですが、その壁いっぱいにヤギが躍っていました。


陶板も、写し忘れましたがたくさんあって、どれも素敵でした。
しかし、我が家はもともと壁が少ない上、そのない壁全部がふさがっていて残念、飾りようがありません。







2020年3月7日土曜日

寝間着制作

 

4週間前の日曜日、綿ネルの布を広げて、夫と私の冬の寝間着をつくろうと、裁断をしました。
もう2年くらい前から布を用意してあったのに、延び延びになっていたのです。


夫と私は、50年も前から、ワンピース型の寝間着を着ています。
最初は母から、両親が着ていたのと同じ、ワンピース丈の着物型(作務衣の上着のように紐で結ぶ)の寝間着を貰ったことがはじまりました。
着物型の寝間着は着心地はいいのだけれど、紐で結ぶので前がはだけてしまうし、うつ伏せで寝るときは紐が邪魔になるし、ということで、わりとすぐに前を合わせないワンピース型になりました。

さて、4枚分裁断し終えたら、そこでその日のエネルギーは、使い果たしました。
でも、裁断ができれば、後は縫うだけなので大仕事をした気分でした。


次の日曜日、襟ぐりをつくります。
見返し布を当てて縫って、


切り取って、縫い代に切り込みを入れて、


そして裏返して、襟周りにミシンをかけて、見返し布も縫いつけます。


二回目の日曜日はそれで終わりました。
でも、ここまで来たらあとは直線で縫うだけ、峠はすっかり越えています。


その次の日曜日、やっと仕上がりました。
縫う部分は長く、下糸を2回取り直し、ひたすらミシン掛け、足かけ3週間の大仕事でした。


今まで、綿ネルの冬の寝間着は2枚ずつしかありませんでした。
2枚だと、寝汗をかいて取り替えたいときなど、夏の寝間着を動員しなくてはならないときもありました。
とくに夫はよく寝汗をかきます。布団をはいで身体を冷やせばいいのにと言うと、使い過ぎの肩を冷やしたくないので、汗をかく方がましだと言いながら汗をかきます。
とにかくこれで、夜中に2度寝間着を取り換えることさえ、心置きなくできるようになりました。
もっとも、さすがに2度は取り換えないだろうけれど。







2020年3月3日火曜日

古い写真

コンピュータの背景の画像として、長く猫のトラの写真を使っていましたが、しばらく前にバージョンアップしたら、勝手に消えて、画面が真っ黒になってしまいました。
もう一度トラの写真を貼りつけようと探していたところなかなか見つからず、母の写真が目についたので、これを背景にすることにしました。


前列の真ん中が母です。
コンピュータを立ち上げるたびに目にする写真。毎日見ていると、いやでも細部に目がいってしまいます。母の母、すなわち祖母の肩越しに見える花は、いったい何でしょう?
祖母に抱かれている赤ちゃんは、昭和2年生まれの母の妹、昭子さんです。昭子さんが何月生まれかは知りませんが約1歳、この写真は昭和3年(1928年)に撮られたのではないかと推察できます。場所は、岡山県の宇野、橋ができるまでは香川県高松への宇高連絡船でにぎわっていた町です。
花は最初シクラメンに見えましたが、当時、シクラメンは出回っていたでしょうか?
シクラメンは地中海原産、日本には明治時代にもたらされましたが、冬の花としてシクラメンをよく目にするようになったのは、1960年代(70年代?)以降だと思われます。出回り始めたころは、高価でもありました。
とすると、この写真に写っている花は、サクラソウなのでしょう。
サクラソウの鉢植えは、花の種類が少なかったころは、今よりもっと花屋さんの人気商品でした。母も、サクラソウの鉢植えを愛でていましたが、今考えるとそれは、日本サクラソウではなくて、サクラソウによく似たプリムラ(プリムラ・マラコイデス)だったのでしょう。

さて、長男、すなわち母の兄の小学校入学前後に記念写真を撮ったとしたら、一つ違いの母は5歳です。兄以外の子どもたち、母と弟、そして妹は、手編みのセーターを着ています。
祖母は当時の人ですから、着物はすべて自分で縫っていたのですが、編みものも得意だったのでしょう。


編みものといえば、もう少し大きくなってからの兄弟だけの写真でも、母と妹、そして末の弟は、手編みの服を着ています。
しかも、母のセーターは裾に模様が入っているだけですが、母の妹のセーターと末の弟のカーディガンは、凝ったデザインの編みものです。よくは見えませんが、末の弟のパンツも編みもので、カーディガンとパンツとは、おそろいだったのかもしれません。
家は商家だったとか、祖母は炊事洗濯、そのほかいろいろ家事があったはずなのに、昔の人はすごいです。






2020年2月19日水曜日

トルコのオヤ

世の中には、プレゼント上手な人がいます。
私はプレゼント下手、いったい何が喜ばれるのかと、途方に暮れてしまうことが多いのですが、自分へのプレゼントなら迷いません。当たり前ですが欲しいものがはっきりしています。
そして、ずうずうしくも毎年のように、自分の誕生日に、自分にプレゼントして喜んでいます。



今年の誕生日プレゼントは、トルコのスカーフでした。
トルコ西部にあるイズミール県北部の、ベルガマのコザック平野で、1950~60年代につくられたスカーフです。


スカーフ本体は、トルコ国内で手織りされた、約80センチ角の木綿のガーゼでできています。
それに木版で草花を捺染し、四周には「オヤ」と呼ばれるシルクの縁飾りをほどこしてあります。


ガーゼなので、手で押された木版は、裏にも表同様くっきりと模様を出しています。

コザック地方には、1970年ころまで電気が通っていませんでした。
そのため、伝統的な生活は長く続いていて、娘たちは誰でもオヤを編みました。
漫画、『乙嫁語り』では中央アジアの少女が、『アンの幸福』ではカナダの少女が、
「結婚が決まらないと、編みものや刺繍に力が入らないわ」
などと言いながら、手仕事に集中するきっかけを待っていますが、トルコでも、かつては結婚するときの持参品として、あるいは結婚後も自分や娘たちのために、オヤ飾りのあるスカーフをつくりました。



オヤは、手で撚った絹糸を使って縫い針で編みました。これをイイネオヤと呼びます。
縫い針でなく、地域によってはかぎ針で編むオヤもあるようです。
女性たちは、どれだけ細かく編めるかと、美しいオヤづくりを目指したことでしょう。花の直径は25ミリです。


絹糸もトルコで生産されたものを使っています。


もう1枚、オヤのスカーフを持っています。


この一枚がとっても好きだから、もう一枚欲しくなったのですが、色も、花を丸く表しているところも、色遣いも、正直、こちらのスカーフの方が気に入っています。
花の直径は20ミリです。


一人で刺したというより、みんなで集まってわいわい刺したのでしょうか?


コザック平野では、ごく最近まで一般家庭で、伝統的なトルコ絨毯(キリム)も織られていました。

イラン人の友人のモジュガンさんは、イラン国内では1960年代以降、ペルシャ絨毯を除いて、イランの伝統的な織りや染めはほぼ消えてしまったと言っていましたが、トルコでは、どうでしょう?
急速なグローバル化で、生活が変わっているとは思われます。







2020年1月9日木曜日

手縫いの魔法

昨年、夫の友人の林さんから、ご著書が贈られてきました。
そのとき、お連れ合いのアメリーさんの、北鎌倉の古民家ミュージアムでのキルト展の案内状もいただき、では、アメリーさんが会場でお話をなさる日に伺いますと返事しておきました。
ところが今年になって、アメリーさんがお話する日は混雑して、お話も何もできないので別の日に来て欲しいというご連絡があり、日曜と水曜なら会場にいらっしゃるというので、ではと昨日、古民家ミュージアムに行ってきました。

その前日になって、
「鎌倉まで行くんだから、逗子の長島くんちに寄ろうぜ」
と夫、長島さんに電話しました。
すると夜になって、長島夫人から、
「せっかくこっちに来るなら、古民家ミュージアムに寄ってアメリーさんのキルトも見て!」
という電話がありました。
なんだ、長島さんと林さんはお知り合いだったのです。


というわけで、北鎌倉の古民家ミュージアムに行ってきました。


古刹円覚寺の隣に建つ古民家ミュージアムは、福井県の古民家3軒分の木を組みなおしてつくったギャラリーで、とても素敵な空間でした。
そして、それに負けない、アメリーさんの堂々たる作品群でした。


なにせ、大きな作品だけで300点展示してあり、細々したものはすでに数百点売れてしまったというのですから、すごい制作エネルギーです。

アメリーさんはフランス生まれ、5人兄弟の末っ子だったためお古ばかり着せられ、なんとか自分で洋裁を身につけたいと15歳でパリに出てきて洋裁を習ってからは、クリスチャン・ディオールのもとでお針子としてキャリアを積み、オートクチュールのデザイン・制作も任せられるようになり、クリスチャン・ディオールの死後は後継者のイヴ・サンローランのもとで働いてから、ギ・ラロッシュのもとに移られています
1963年、30歳の時にギ・ラロッシュの日本橋三越の責任者として来日、1年の約束が4年になり、一旦パリに帰ったもののまた呼ばれて日本に来たとき林さんと出会って結婚、世はオートクチュールからプレタポルテの時代になっていたこともあって退職されました。
布が好き、縫いものが好きで、洋服つくりは続けていらっしゃいましたが、やがて着物に魅せられ、着物で服をつくるようになり、捨てられなくてたまる端布を片づけようと、キルトはじめられました。
  

縫いものはお手のもの、疲れたなぁと思ったときでも、ご自分のアトリエにこもって縫いものをしていると、身も心もほぐれていくのだそうです。


アップリケ、刺繍、刺し子など、手縫いの作品も数多くありますが、布をつなぐのはミシンを使っているそうです。
もうミシンは自分の思うままに動いてくれる手のようなものだそうです。


私だったら、どんなに時間がかかってもミシンより手の方が安心できます。ミシンだと上下の布がずれたりしてしまいます。
それ以前に縫いものをしていると肩が凝りますが、アメリーさんは針を持つと疲れもとれるというのだから、驚きます。
キルト展は1月26日までやっていますが、すでに四千人以上が来場されたそうです。
そして、キャサリンが言っていましたが、お話をする日に行ったら、狭い会場に200人以上詰めかけていて、作品も見えないし、お話も遠くて全く聞こえなかったそうでした。








2019年10月15日火曜日

ちょっとあげた重い腰

枕カバーの一枚にしばらく前から穴が開いていました。
繕ってもいいけれど、かぎ裂きならともかく、かれこれ十年も使ったものだと、丁寧に繕っても、すぐほかのところが破れてきます。
客用の枕カバーとしてストックしてあるものを普段用に使うか、それとも買うか、穴の開いた枕カバーを見たとき思い出すだけでしたが、しばらく思案していました。
そうだ、自分で縫えばいいのです。布だってあります。


というわけで日曜日、寝間着にするつもりで買っていた布を切って、今使っている枕カバーを参考に、縫うことにしました。
片方の端を長くして内側に折り曲げて縫ってあるので、枕に被せて、紐もボタンもファスナーも要らない形のものです。


まず一枚だけ仕上げてみました。


サイズはぴったりです。
母はいつも枕カバーは手づくりでしたが、私はいつごろからか、シーツなどと揃えて、無印良品で買うものと決めてしまっていました。


ついでに、いつか直そう直そうと思いながら使っている、長い枕用のカバーを、切って短くしました。
枕カバーを替えるたびに、短かく切ればいいのにと思っていたものです。


というわけで、枕カバーが6枚できました。これで、当分安心です。
いつものことですが、重い腰をあげてみたらわりと簡単、しかも、懸案事項解決で心がすっきりしたことでした。






2019年8月16日金曜日

リメイク

手持ちの服は、何度かに分けて整理したのですが、まだ一年に一度も袖を通さない服も残っています。
基本的には普段着と作業着さえあればいい日常ですが、気に入っていたり、思い出があったりして、捨てられない服が残っているのです。


このジャンプスーツもそんな服の一つでした。
ジャンプスーツのままでは、お手洗いに行くたびに上半身を脱がなくてはなりません。そんな面倒な服を、貰って喜ぶ人は思い浮かばなかったし、さりとて仕立ても形も悪くないので、ずっと処分しそびれていました。
今年もこの服が目について、広げてみて、
「そうだ、ワンピースにしてみよう」
と思いつきました。
どうせ、ジャンプスーツのままで着るつもりがないなら、失敗して元々です。


この服は前が広く開いているので着やすく、胸ポケットが両方にあるので、ブラジャーなしで着られるし、


後ろの切り替えがVの字になっているところなど、細部が楽しいのです。


まず、当時はやった厚い肩パットを取り除き、前後のパンツになっている部分を解きます。


そして、三角に突き出たところを切り取って、真直ぐ縫います。
前後に布を足さなくてはならないかと思っていましたが、そのままで大丈夫でした。
そのかわり、脇は腰で膨らんで裾すぼみになっているので、布を足すことにしました。
ワンピースとして着るだけでなく、下にレギンスをはいてチュニックとして着ることも多い(といっても、1年に2回くらいか)とは思いますが、丈は長めにしました。


裾を切った布と、いざとなれば肩パットも解いて、「足す布」として利用できそうですが、それほど布が必要ではありませんでした。


切った裾を縫い合わせたものを三角に切って、それを解いた脇に足しました。


もともと、ぶかぶかにつくってあるものだし、いまどきはスカートがバルーン型になっていても一向にかまわないので、らくちんです。


出来上がりです。
このくそ暑い中、何度も試着したので、着てないのに洗濯することにしました。
これなら着られます。着るのが楽しみです。









2019年7月21日日曜日

ナガの仕事

先日、友人Yさんの家で、服とバッグの展示会がありました。
Yさんの家は、自身で家畜小屋を改造したり、それに増築したりしてつくられたもので、どこをとっても忍者屋敷のような、美術館のような、とても楽しい家です。

服がかかり、バックが並べてある展示室の一角に、手織りの古い布が重ねてありました。値段がついています。売りものでした。
私がその布を興味深そうに見ていると、Yさんのお連れ合いのKさんが、
「インド東北部に住むナガの織ったものです。広げてみてください」
と言って、一枚ずつ広げて見せてくれました。
Yさんはかつて、タイ北部の手織り布を使った服のデザインをして、縫製をやはりタイでして日本で売ることを生業としていらっしゃいました。タイに通ううち、タイ・ビルマ国境の市場まで運ばれてきたナガの織りものに夢中になり、何年間も、タイに行くたび市場に出かけて、ナガの織りものを運んできた人から買っていたそうでした。


その中の一枚です。

ナガは、インドとビルマの国境沿いのナガランドに住む人々で、約200万人います。かつては集落単位のアイデンティティーを持っていましたが、1963年にナガランドが成立して以来、ナガとしての共同体の意識が芽生えました。


『The Nagas』(Julian Jacobs著、USA)の初版本は1990年に発行されています。
初版本は、第二次世界大戦の戦中(1936年ごろ)や戦後(1947年ごろ)に撮られた白黒の写真を収めた本でしたが、2012年に発行された改訂版には、2008年前後に撮られたカラー写真が加えられ、消えてしまったから逆に集められて写真に撮られたであろう生活道具の数々が、ナガの生活文化をより伝える内容となっています。

2008年

例えばこの写真は、2008年に撮られた室内の写真、高台のついたアルミニウムの食器が壁に掛けられていますが、その形は以前は木や土でつくられていた形を踏襲しています。


これが、同じ形の木の器です。


そして、焼きものでも、同じ形のものがつくられていました。
左は焼きもをつくるための道具です。


ナガの布は、どれも90×170センチほどの大きさで、腰巻にしたり、肩掛けにしたり、毛布にしたりと、多目的に使えるものです。
特徴は、経糸(たていと)を見せ、緯糸(よこいと)を見せない織り方で織っていることで、その織り方を生かして、一部に緯糸で模様をつくっているところです。
裏を見ると、経糸に使ってある縞模様しか見えないことがわかります。
この織り方だと、平織りでも目が積み、風を通さない暖かい布が織れます。


縞以外の模様は、織るときに模様を出したい場所の経糸をすくい、表に模様糸が見えるように、模様糸を刺してつくります。


この写真の竹串が、模様糸を刺すために経糸を拾うための道具です。


裏には、ちょっとだけ影響が出ています。


ナガの布は地機(じばた)で 細く織ったものを、2枚、あるいは3枚とつないであります。
織り方がうまく、布のミミの仕上がりがとてもきれいなので、とてもきれいにつなげています。布によってはあまりきれいにつないであるので、灯に透かして見ないと継ぎ目がわからないものもありました。

布は村によって、家によってさまざまなバリエーションがありました。
織りで模様をあらわすだけでなく、織り模様と刺繍を組み合わせたものや、無地の布に刺繍だけで模様をつくった布がありました。

1947年

これは、刺繍の割合の方が多い布です。


タカラガイを縫いつける村もありました。
Yさんのコレクションも一つ一つが違うものでした。

ナガの人々は家づくり、布、鍛冶、籠、木彫りなどなどすべてにおいて巧みでした。

1936年

1936年の集落の一つです。
家は村によっていろいろな形がありましたが、村人総出で柱を立て、小屋を組み、屋根を葺きました。

1936年

ベッド一つとっても、ただ寝られればいいというものではなく、物語を感じます。
この、手のような羽のような飾りは、何を表しているのでしょう?

2004年

そして、伝統社会が崩れて、近代化の波に飲み込まれ、すでにたくさんのものを捨てて、たくさんのものを取り入れた後での写真も興味深いものです
籠師さんはカジュアルな姿で竹籠をつくっていますが、腕は確かなようです。しかし、これも生活形態や物流形態が変わり、つくり手がいなくなるのは、時間の問題かもしれません。


籠はどれも、息をのむほど美しくできています。


竹を利用したこんな水筒を持って歩き、


こんなパイプで刻み煙草を楽しんでいたなんて、なんて贅沢な時間だったことでしょう。


生活の隅々に、遊び心があふれていました。