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2020年2月19日水曜日

トルコのオヤ

世の中には、プレゼント上手な人がいます。
私はプレゼント下手、いったい何が喜ばれるのかと、途方に暮れてしまうことが多いのですが、自分へのプレゼントなら迷いません。当たり前ですが欲しいものがはっきりしています。
そして、ずうずうしくも毎年のように、自分の誕生日に、自分にプレゼントして喜んでいます。



今年の誕生日プレゼントは、トルコのスカーフでした。
トルコ西部にあるイズミール県北部の、ベルガマのコザック平野で、1950~60年代につくられたスカーフです。


スカーフ本体は、トルコ国内で手織りされた、約80センチ角の木綿のガーゼでできています。
それに木版で草花を捺染し、四周には「オヤ」と呼ばれるシルクの縁飾りをほどこしてあります。


ガーゼなので、手で押された木版は、裏にも表同様くっきりと模様を出しています。

コザック地方には、1970年ころまで電気が通っていませんでした。
そのため、伝統的な生活は長く続いていて、娘たちは誰でもオヤを編みました。
漫画、『乙嫁語り』では中央アジアの少女が、『アンの幸福』ではカナダの少女が、
「結婚が決まらないと、編みものや刺繍に力が入らないわ」
などと言いながら、手仕事に集中するきっかけを待っていますが、トルコでも、かつては結婚するときの持参品として、あるいは結婚後も自分や娘たちのために、オヤ飾りのあるスカーフをつくりました。



オヤは、手で撚った絹糸を使って縫い針で編みました。これをイイネオヤと呼びます。
縫い針でなく、地域によってはかぎ針で編むオヤもあるようです。
女性たちは、どれだけ細かく編めるかと、美しいオヤづくりを目指したことでしょう。花の直径は25ミリです。


絹糸もトルコで生産されたものを使っています。


もう1枚、オヤのスカーフを持っています。


この一枚がとっても好きだから、もう一枚欲しくなったのですが、色も、花を丸く表しているところも、色遣いも、正直、こちらのスカーフの方が気に入っています。
花の直径は20ミリです。


一人で刺したというより、みんなで集まってわいわい刺したのでしょうか?


コザック平野では、ごく最近まで一般家庭で、伝統的なトルコ絨毯(キリム)も織られていました。

イラン人の友人のモジュガンさんは、イラン国内では1960年代以降、ペルシャ絨毯を除いて、イランの伝統的な織りや染めはほぼ消えてしまったと言っていましたが、トルコでは、どうでしょう?
急速なグローバル化で、生活が変わっているとは思われます。







2020年2月4日火曜日

ラフの服


友人の出版記念の集まりがあり、長く着てなかった「イベント服」を引っ張り出して着て行きました。
タイ、ラオスの山地に住んでいるラフ人の衣装です。

ラフ人の総人口はおよそ100万人、中国に72万人、ビルマに15万人、タイに10万人、ラオスに1万5千人、アメリカに1万人、ヴェトナムに1万人が暮らしています。
1980年ごろまで、東南アジアの山地民たちは、ラフに限らずモン、アカ、リス、カレン、ヤオなどなど、それぞれの民族衣装を日常的に着て暮らしていました。
しかしグローバル化が奥深くまで達した今では、お祭りのときぐらいしか、民族衣装は着ないのではないかと思われます。
東南アジアの山地に住む人たちの源郷は中国で、迫害され、暮らしにくくなった人々が東南アジアに移動してきて住みつくようになったとされています。
彼らは、綿や麻を育て、藍や木の実で濃い青や黒に染めた服に、交易で手に入れた色布を飾りつけたり、色糸で刺繍したりして、民族独自の手の込んだ衣装をつくり出してきました。
この上着は、右身ごろはウエストまでもないような短いもの、左身ごろと後ろ身ごろが長くつくられています。

『From the Hands of the  Hills』より

伝統的には、黒地に段状にアップリケをした腰巻きと合わせるものですが、私は白いパンツと合わせて着ています。


地の黒い布と、袖のアップリケ布は手織り木綿を使い、垂れた布の両端のアップリケは、工場製の綿ブロードを使っています。


胸元に縫いつけているのは、直径1センチほどの薄いアルミのお椀形の飾りです。ボタンは、同じくアルミ製の真ん丸なものです。
このアルミの飾りは、ラフだけでなく、リス人も好んで、男性服にも女性服にも使います。いつ頃からアルミの飾りを使っているのか、その昔は本物のコインや銀細工などを使っていたと思われます。


アルミの飾りは2か所に穴が開いていて、糸で縫いつけてあります。
山地に住む人々は銀色が好き、金色は好みません。銀細工の技術があるので、職人さんがアルミ板を丸く切り抜いてこんもりさせるのは、造作もなかったと思われます。




ラフの服は、形としてはヴェトナムのアオザイと似ています。
ただ、アオザイが一人一人の体形に合わせて、仮縫いもしっかりして、身体にぴったりと仕立てるのと違って、ラフの衣装は平面的な裁断なので、どんな体形でも安心して着られます。
袖のまわりもゆったりしていて、山地の民の衣装としては、とても着心地のいい服です。


そして、裾の刺繍も、なかなかかわいいのです。











2019年8月3日土曜日

夫のお土産

天津泥人形は、実はその昔我が家にもありました。夫が仕事で中国に行ったとき、お土産に買ってきてくれたものです。
当時、友人小池頌子さんのお母上、小池千枝さんが故郷の長野県須崎に「世界の民俗人形博物館」を開くという予定があり(あるいはもう開館していたか)、この人形は寄贈しました。
それを、最近頌子さんから収蔵品カタログをいただいて、久しぶりに目にしました。


高さは10センチ余りで、同心居の20センチを超える人形とは迫力が違いますが、それでもリアルな感じはよく似ています。
寄贈した当時はどこでつくられたものか知りませんでしたが、天津泥人形に違いありません。


カタログは、アジア、アフリカなどと大陸別にわかれていて、泥人形の上下、同じページはやはり中国の人形ですが、天津泥人形は、飾らない素敵さを一番漂わせていると感じるのは、私の身びいきでしょうか。


小池千枝さんは、戦争でお連れ合いをなくしています。
そして、生活のために飛び込んだ服飾の世界ですが、ファッションの都だったパリに行きたいと願い、1954年にやっと貨物船の切符を手に入れ(当時は貨物船にも数席あった)パリに行くことになりました。1ドルが360円、千枝さんの月給が数千円だったころのこと、幼い娘二人は、自分の母上に託しました。
船は東南アジア諸国、インド、イランなどを通ってエジプトのカイロに寄港、そのときこの水売りの人形を買ったのが、その後の2700点にも及ぶ人形の最初だったそうです。


千枝さんは、ファッション界の人でしたから、おもにファッション人形を集めていらっしゃいましたが、その後、娘の頌子さんが同行するようになって、民俗的な人形(フォークロア)の収集にも力を入れました。


これがそのカタログです。

さて、夫は仕事でおもにアジア諸国を訪ねまわっていた時代がありましたが、それにしてもよく中国で泥人形を見つけたものでした。
私は、夫の仕事に同行して1981年に一度だけ上海と北京に行ったことがありましたが、見つけたのはせいぜいお土産っぽい京劇の人形くらいでした。


別のときに、夫はこれと同じ土人形も買ってきてくれましたが、残念ながら失われてしまっています。
夫は私と違ってまったくものに集中しない性格で、好みも私とは必ずしも一致しませんが、当時はよく私の好みを理解していたと感心します。
もっとも、夫が買ってきたものを見せたところで、どれもこれも全く覚えてはいません。そんな夫ですから、買ってきてくれた中国の土人形が、我が家に一つも残っていないことなど、気にもしていないのですが。








2019年4月23日火曜日

ペルシャ文化を垣間見る


イランのテヘラン大学でテキスタイルを学び、失われたペルシャのテキスタイルの再現に 精力的に携わっているモジュガンさんが、東京自由が丘のDIGINNER GALLERYで、明日(4月24日)まで、展示即売会を開いています。




ペルシャ起源の染めもの、刺繍、服飾スタイルなどは、文化が行きかい幾重にも重なってしまったイランには残っていませんが、周辺には残されているところもあり、とくにインドに多く残されています。
古いペルシャスタイルの服や、唐草、ペイズリー、生命の樹などの木版染めに加えて、今回は美しい刺繍を施された布が加わっていました。
上の写真の青い服や、二枚目の写真の左3点などです。


モジュガンさんがデザインして、インドの職人さんが刺したものです。
この刺繍は薄い木綿の生地、ローンが織れての作業です。ペルシャの人たちも、細い細い木綿糸を手で紡ぎ、手で織っていたのですが失われてしまい、それがインドにも伝わっていまも残っています。


裏もとてもきれいですが、職人さんは裏を見て刺すそうです。


これはまだ売れていなかったので、ちょっと欲しかったけれど、どこへ着てゆく?着ないとしたら、どこへ飾る?
着るあても飾るあてもないので、眺めて愛でただけでした。


二階には、ブラウスたちもありました。

モジュガンさんと日本をつなげているのは、かつて彼女が神戸工科大学で、杉浦康平氏のもとで学び、博士号を取得しているからです。モジュガンさんは、特に生命の樹と水の関係に関心を持っていて、ライフワークにされています。


モジュガンさんは夏以降は、インドに研究者の職を得て行ってしまわれますが、6月18日にはやはり自由が丘にある「岩立フォークテキスタイルミュージアム」で、「イランにおける生命の樹」と題した講演をなさいます。
岩立フォークテキスタイルミュージアムでは、7月13日まで生命の樹に焦点を当てた展示をしていますが、5月14日には『インド花綴り』の西岡直樹さんが、「インド、人々の内にしげる樹」と題されてお話されるよう、そちらも楽しみだけれど、行けるかな?






2019年3月13日水曜日

歌舞く


作業するので、頭にかぶる手ぬぐいの引き出しを開けると、懐かしい、松崎笙子さんの歌舞くゆかた地でつくった手ぬぐいが、目に留まりました。


素敵素敵。
毎夏、銀座松屋で、歌舞くゆかたの新しいデザインが発表されるのを、楽しみにしていた時期がありました。


そういえば、浴衣も一枚持っています。
仕立て代をケチって、歌舞くゆかた縫製の専門家に頼まず、母に縫ってもらったものです。


「模様合わせはしっかりしてね」
と念を押したのですが、出来上がりを見て、仕立て代をケチったことを後悔しました。どことなく、気に入っていません。
母は、私もそうですが、模様合わせより、どうやったら一番多く残り布を取れるかを優先する人だったのです。大胆にはさみが入れられません。
というわけでこのゆかたは数度しか着たことがなく、箪笥に眠っています。


でも、歌舞くゆかたを見ると、元気が出ます。
もう少し気楽に着ればいいのですが、今年の夏は、ゆかたに暑すぎないでしょうか?








2019年2月24日日曜日

箪笥の中

母が、妹と同居するために家の整理をしたとき、箪笥を、着物入りのまま譲り受けました。
幸い、箪笥は我が家の小さなウオークインクローゼットの奥にぴったり収まったので、中も見ずそのままにしていましたが、周りがあまりにも散らかってきたので、衣装箱に入れてある私の着物や夫の母の着物も、この箪笥の引き出しに移せないかと、ちょっとだけ整理してみました。

引き出しの中にの着物は、おもに母のものでしたが、父の着物も、普段着ではなさそうなのが入っていました。
父は私が高校生のころまで、勤めから帰ってくると着物に着替えていました。だから普段着は見慣れていましたが、父が改まったときに着物を着たのを見たのは、祖父の葬儀のときだけでした。
そのときは黒ではなく、確か裃のついた生成りの麻の着物でした。


わりと薄手の絹の袴と、縮緬の袷の着物です。
いったいどんなときに着るのか、また父が着たことがあったかどうかも知りません。


一緒にあったのはなんとも派手な長襦袢。
地味な服装をしていながら、中にこんな派手な長襦袢を着ていると思うと、おかしくなります。


一緒にしてあったけれど、女物かもしれません。


いまでも、男物の長襦袢というものは、派手だった伝統を受け継いでいるのでしょうか?


これは、二本足のカラスの模様です。
ということは、三本足の八咫烏ではなくて、明烏なのでしょうか?


女物の長襦袢も、派手さにおいては負けてはいません。


たとう紙を開いてみると、見たことがない藍染の着物(右)が出てきました。
左は、母から勧められて、ゆうちゃんに織ってもらった私の着物です。
ゆうちゃんは、倉敷の祖母の家の近くに住んでいましたが、お父さんが長期に入院するなど、あまり幸せではない子ども時代を送っていました。そして、中学を卒業すると家を離れて、鳥取の弓浜絣の織り元に織り子として住み込み、弓浜絣を習得していきました。
そんなゆうちゃんを応援しようと、母は私の着物を注文したのですが、母も弓浜絣の着物を持っていたとは知りませんでした。
私は何度も着ましたが、母は着たかどうか、たぶん一度も着なかったのではないかと思われます。


おや、ゆうちゃん、糸目が飛んでいるよ!
母はこれを注文したわけじゃなくて、もしかしたら練習で織ったのを譲ってもらったのかもしれません。


羽織と言えば、小学校の入学式で、お母さんが着物の上に黒紋つきの羽織を着るのが流行っていた時代がありました。祖母の年代の方たちは羽織を着ていましたが、母や私の年代では、入学式以外に、ほとんど羽織姿を見ることはなかった気がします。
仕事をしていた夫の母は、普段は洋装でも仕事着はすべて着物でした。しかし、そんな母が羽織を着ていたのを見たことがあったかどうか、ほとんど覚えがありません。
しかし、私の母が結婚のために着物をそろえてもらったころは、羽織を着るのは当たり前だったのか、黒紋付をはじめとして、羽織はいくつかありました。
当時の流行か、この羽織は下前が少し下がっています。襟を抜いて着ると、裾がまっすぐに見えたのでしょうか。

着物も大柄、その上に着る羽織も大柄、戦時中というのに、なんともド派手でした。







2019年1月28日月曜日

テュベテイカ


時代箪笥の引き出しから、中央アジアのイスラム教徒の男性がかぶる帽子が出てきました。
その昔、夫の父にもらったもの、仕事でソヴィエトに行ったときの、お土産でした。
ロシア語でテュベテイカと言うこの帽子は、畳むことができ、広げると四角いトップで、それに縁がついている形になります。そして、刺繍してあります。
刺繍の模様はいろいろですが、タジキスタン、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタンなどに住むテュルク系の人々が、同じ形のテュベテイカをかぶっています。ロシアでもイスラム教徒の多い地域で民族衣装として着用され、中国の新疆ウイグル自治区のテュルク系の人たちもかぶっています。


これは、テュルク系民族の分布図です。
濃い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている国で、薄い青色の部分はテュルク系言語を公用語にしている自治地域です。


たぶん、夫の父が買ったというよりは、どなたかにいただいたものだったのでしょう。
もっともありふれた文様ですが、黒地に白い糸のとても丁寧な刺繍がほどこされています。

  

ネットでいくつか似た帽子を見ましたが、同じスタイルとはいえ、どれも1960年代に父にもらった帽子のように細かい刺繍のものはなくて、雑です。


我が家にあるテュベテイカ、例えば縁の刺繍を見ても、同じではなく、周囲の16の模様が一つおきに、違う刺し方をしています。

心を込めて家庭で帽子をつくる人たちが少なくなっているのか、あるいはお土産ものと自分用は違うのか、この目で見たことがないので、何とも言えません。


裏地には赤い木綿を使って、全体に刺し子しています。


よく残っていました。
一緒にもらった琥珀のネックレスはなくなったしまいましたが。