階段の踊り場に掛けてあるのは、夫の両親の週末の家に残されていた蓑です。
江戸っ子の父は晩年、飯能の山中にあった週末の家で農作業をするのを無上の喜びとしていました。留守の間は鶏が自給するようにと、休耕畑にどこまでも伸びた、大きな鶏小屋をつくって鶏を飼い、孫たちにお芋掘りをさせるため、サツマイモを植えたりしていました。
そんな父が雨のとき使っていた蓑です。
夫の両親とも他界して十年ほど後に、飯能の家を整理したとき、蓑は納屋にありました。
「そんなもの、取っておいても困るだろう」
と、夫は言いましたが、もちろん取っておきました。
スゲの蓑です。
黒い飾りはウミスゲとも言われた海藻、中央のちょっと色が濃い、カンナの削りかすのように見えるのはマンダ(シナノキ)の皮、この組み合わせの蓑が東北地方ではもっとも一般的でした。
内側は、スゲを編んで、身体との間に隙間ができるようつくられています。
たぶん銀座の「たくみ」で買ったものだと思われますが、父は正統な実用品を使っていたということになります。
蓑は、農業、漁業、林業、商業などの大切な必需品でしたが、高度成長以後使われなくなり、昭和四〇年代以降は、観光土産としての需要のみになったようでした。
その観光土産も長くは続かなかったことと思われます。なにせ場所を取りますから。
その昔、東北を旅したときに、すべて杉皮でできた、首周りは色糸で装飾した、美しい蓑を手に入れたことがありました。つくっているおばあちゃんが裂き織りもしていて、裂き織りを見に同行のさっちゃんに連れて行かれた家で、蓑もつくられていたのです。
その蓑は、まだ結婚する前、両親の家の玄関に飾っていましたが、なにせじゃまでした。やがて私が結婚して、すぐにガーナにも行くことにもなって、蓑の行き場所に困り、新聞で見たバザーに寄付してしまいました。
蓑をとりに来た人たちが、思いがけないりっぱな箕に喜んでいたのを覚えていますが、もうあんな蓑も、こんな蓑もつくれる人たちはいなくなってしまったことでしょう。