2014年1月21日火曜日
三宅八幡宮の鳩
長い間、おもちゃが並んでなかった骨董市のまことさんの店に、大きな土の鶏と一緒に、古い鳩のつがい(というわけではないかもしれない)が並んでいました。
京都の三宅八幡宮の鳩だと思います。
鳩は神さまのお使いというわけですが、三宅八幡宮の境内には、狛犬のかわりに大きな鳩の像があるそうです。
さて、八幡宮と名のつく神社は、全国に約44,000社もあります。大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社としているのですが、どの八幡宮も鳩と無縁ではありません。
なぜ、鳩なのでしょう?
今、金達寿の『日本の中の朝鮮文化』(講談社学研文庫、もともとは1970年、文庫版は1983年、学研文庫は2001年)を読んでいます。
これまで、歴史にも神社仏閣にも、あまり関心なく生きてきましたが、この本は面白い。学者たちがこつこつと調べた研究の成果の足跡を、金達寿がたどっている本で、関東編では私の住む八郷にも来ています。
ところが八郷では、案内してくれる人の関心と金達寿たちの関心がずれていて、大きく空振りしています。見たいものが見えず、知りたいものが知れず、行きたいところに行けなかったのです。
ちなみに、我が家は、今でも使われている住所名の下に、地域の人たちが日常的に使う班名がありますが、そのさらに下に、土地区分の台帳などを見なくてはわからない、「小々字」 まであります。また、通称もあります。そんな名前は、誰の目にも耳にも届きませんから、ちょっときて、土地の古い名前から、帰化人の足跡をたどるのは、なかなか難しそうです。
金達寿たちの行けなかった、国分寺の瓦を焼いた窯跡では、帰化人がつくったという証しである布目瓦が今でも拾えます。
さて、この本を読んで感じるのは、すべての神社は帰化人と関係あったのではないかということ、しかもそのことが、いまでは完全に覆い隠されているということです。
朝鮮からの帰化人は、一時代だけではなく、百済、新羅、高麗と何回も海を渡って来ていて、その都度、織物、瓦づくり、須恵器(朝鮮土器)づくりなど新しい技術を持って、各地に定住していきます。そして、各地に競うようにして氏神を祀る神社をつくります。
祖国朝鮮では、仏教の伝来とともに神社はすたれるのですが、日本では遠く故郷を離れたという望郷の念もあり、祖霊を祀ることは、衰えるどころか活発化して行きます。
この本をちらっと読んだだけでも、日本社会・文化そのものが朝鮮人の帰化人の重層構造でできたと考えられますが、それは隠され知られていません。和人というのは、いったい誰なのでしょう?
古墳もすべてが朝鮮系の人たちのお墓のようです。そして、茨城県だけでも、この本を読むまで知りませんでしたが、1964年までに調査された古墳が5,871基もあります。それでも群馬などに比べると、少ない方です。
話が逸れました。
八幡宮も朝鮮文化と関係あるのかと思いますが、鳩との関係はわかりません。もちろん、鳩にまつわる神話はいろいろあるようです。
同じ日に骨董市の別のお店で、宝珠をくわえた狐に、真黒い顔の神さまが乗っている木彫を見ました。見事な出来で、たいへん興味深いものでした。
狐、鳩、牛、馬、狛犬など、動物が神さまの使者として登場してくるのは面白いことです。
この鳩は、昭和初期のものか、あるいはもっとさかのぼるのものだと思います。
なかなかの風格があります。
三宅八幡宮の授与品の鳩や、男山八幡宮の授与品の鳩は、伏見でつくられた伏見人形だそうです。
横から見てもそうですが、上から見ると、細身の姿に時代を感じます。
人の好みというのは、どうして変化していくものなのか、最近のものは、何でも丸っこくできています。
わー!!懐かしい愛読書「キムダルス」さんですね、
返信削除ルーツを辿れば〇皇家まで関係しますからね。
大和は「渡来人」が開いたと言われ高句麗・百済・扶余と面白い資料が一杯で「アマツ神」ですね。
すべてが結びつく訳ではないでしょうが面白いです。
昭ちゃん
返信削除私はこれまで日本に全然目を向けていなくて、こんな面白い本があるなんて、知りませんでした。これを読んだら、自分でも歩いてみたくなるところが、この本のよいところです。
ところで、私は湿疹に長い間悩まされていましたが、やっと気に入る皮膚科に遭遇しました。お医者さんの話だと、「その湿疹は土地が合わないということだね。常夏のところへ転地したら出て来ないよ」と言われました。私のルーツは、どうやら朝鮮ではなく、インドネシアあたりのようです(爆笑)。
血が騒ぐのでしょーね、
返信削除それぞれの時代で解釈が異なるでしょうが司馬さんや上田さんとの対談など面白いですね。
騎馬民族の高句麗や統一新羅の時代など興味が尽きません海を渡ってきた人種や文化が日本流に消化されていますからね。
家内の祖父は奈良吉野ですが、古老の方は奈良に出ることをいまだに「国中・くんなか」に行くと言います。
昭ちゃん
返信削除このあたり、国分寺跡も国分尼寺跡もあります。そこの瓦を焼いた場所と、瓦を使った場所がずいぶん離れています。太い「瓦道」があったというのです。
でも夏草は旺盛です。うちなど二人で歩いているだけでは、道と定めたところにもすぐに草が茂ってきます。では、昔はたくさんの人が往来していたのか?今過疎だから、なかなか考えられません。昭ちゃんの発掘品もおもしろいけれど、見ようによってはどんなところにも面白さが隠されていますね。