「高浜のSさんの家に行くけど、一緒に行く?」
「あっ、行く行く」
先日、大人形(ダイダラボッチ)を見たとき、代田の大人形を見逃していたのです。
私の中で、ダイダラボッチブームは、まだ続いています。
代田の大人形です。
「なかなか、かわいいねえ」
とうとう見ても異人と感じなくて可愛いと感じるようになっていますが、本当は、顔はあくまでも恐ろしく描くことが求められているのです。
代田の大人形で一番気に入ったのは場所です。
人家の塀が、大人形が座れるようにへこんでつくられています。つまり、塀がつくられるずっと前から、大人形はここにいたのです。
そして、写真には撮りませんでしたが、修理中だった梶和崎の大人形は、鉢巻きも額に直していて、すっかりきれいになっていました。
先日、小松﨑章さんからいただいた冊子『大人形』を、一冊郵便局長さんにさしあげました。
すると後日、
「大人形は『鹿島信仰』の中にある、秋田の「鹿島さま」とそっくりですよ」
と、『鹿島信仰-常陸から発信された文化』(茨城県立歴史館の特別展の本、2004年)を貸してくださいました。
鹿島神宮に祀られている神さまは、『古事記』の「国譲り」などで武神的性格を強く印象づけられる、武甕槌神(たけみかづちのかみ)だそうです。
その存在は、古代の東国開拓における守護神的な役割を担い、中世以降の武家政権とのかかわりを生みました。
これは、高浜にある高浜神社ですが、ここは鹿島神宮と密接な関係があります。
七世紀末に、現石岡に国府が置かれました。
当時、それぞれの国府には、都から国司が着任すると、まずその国の大社に参拝し、毎年奉幣や祈願に参向する習わしがありました。『常陸風土記』によれば、常陸国では鹿島神宮が第一大社であったため、国府の外港である高浜から舟で鹿島まで行くことになっ
ていましたが、天候が悪くて出航できないときは、高浜の渚にススキ、マコモ、葦などの青草で仮殿(青屋)を造り、鹿島神宮を遥拝しました。
現在の高浜神社の神殿は後世に、かつての遥拝のつくられた場所あたりに建てられたものです。
これは裏手から見たところ、拝殿も本殿も萱葺きになっています。
さて、鹿島信仰は、朝廷や都の貴族と深く結びついていた一方、人々の生活とも深く結びついていました。
鹿島の神を祀った神社が存在しない常陸の国内外の地域でも、「鹿島」の名をつけた行事が伝承されています。例えば村境に立てる「鹿島さま」と呼ばれる巨大なわら人形、疫病や害虫を送る行事に用いる「鹿島舟」、「鹿島人形」、豊作・豊漁を祈って踊る「鹿島踊り」、安産を祈る「鹿島講」などです。
これらは、鹿島の神に対する信仰が、従来からその土地に根づいていた他の信仰や風習を、包み込んで生まれてきたものと考えられます。
『鹿島信仰』によると、「鹿島人形」は、おもに秋田県の南部に見られます。
確かに、井関の大人形とよく似ています。
写真で見る限り、「鹿島さま」はあまり杉の葉を使っていません。稲わら、こもなどでできています。でも、さんだわらを使い、槍や刀を持ち、大きく、強面で、村の入り口に一年を通じて立てるというところは、まったく同じです。
『鹿島信仰』に載っていた「鹿島さま」たちです。
秋田県湯沢市岩崎の「鹿島さま」。
岩崎には、四体の「鹿島さま」 が立っていて、うち三体は一年に一回、一体は半年に一回つくり直します。
秋田県平鹿郡(現横手市)大森町末野の「鹿島さま」です。
他の集落でコレラが流行ったときも、末野は「鹿島さま」のおかげで犠牲者を出さずに済んだと言われています。この神さまは村人を守りますが、同時に荒ぶる神さまなので、粗末に扱ってはいけないとも言われています。
7月初旬につくり替えます。
秋田県平鹿郡(現横手市)大雄町藤巻の「鹿島さま」です。
「厄神さま」とも呼ばれ、6月に田植えが終わってから、集落の大人によってつくられ、若者たちによって、ここに運ばれます。
「鹿島さま」がしめている横綱部分にろうそくを立て、お餅など供えて、無病息災を祈ります。
明治の一時期に、制作を中断したことがありましたが、明治36年に雄物川沿いに赤痢が流行した際に復活しました。
秋田県平鹿郡(現横手市)雄物川町深井の「鹿島さま」です。
この地域では、村全体でつくって村境に立てる「鹿島さま」と、各戸で「鹿島人形」をつくって「鹿島舟」に乗せて「鹿島流し」をする行事の両方をやっています。
「鹿島さま」の頭のあたり、杉かどうか写真ではよくわかりませんが、
同じく深井の「鹿島舟」を見ると、杉が使われているのがわかります。
「鹿島流し」の様子です。
新鮮な杉の葉が緑なのが見えます。
秋田県千畑町の「草仁王」は、井関の大人形に一番よく似ているでしょうか?お顔の周りに杉の葉が見えます。
現在は「鍾馗(しょうき)さま」と呼ばれていますが、千畑町には、「鹿島舟」の行事も伝承されているそうです。
昔の文献では、「鹿島さま」に杉の葉が使われていることが記されています。
村里の入り口毎に立る 疫病祭草人形 其郷村に依て制作も ことなれと 凡そその尺五六尺 或七八尺に過さる也 杉の葉をもてとし板に 眼鼻画キ藁にて 造り胸に牛頭天王の 木札をさし剣をもたせ 或は木刀をさヽせ また つるぎをさヽせたるあり としとし春秋の是を作る(出典、『月の出羽路 仙北部』)
村の入り口に立つ「鹿島さま」の絵、なんと素敵な風景でしょう。
小松﨑さんによれば、全国で東北を中心として、わら人形は300ヶ所ほど見られたそうです。
冊子『鹿島信仰』の中で、とくに興味深かったのは、「鹿島人形」とか、「大助(おおすけ)人形」と呼ばれているわら人形で、茨城県北部で見られるものです。
旧暦7月10日に、各戸で大助人形をつくります。麦わらで身体をつくり、半紙に武者の顔を書いて、篠竹の刀をさして、お腹にはだんごや饅頭を入れます。それを家の庭に立てておきます。夕方になると子どもたちが人形を担ぎ出して、村の境まで行き、隣村の人形と戦わせて、饅頭を奪い合います。
そのあと、村の境に近い田んぼや川原で人形を燃やし、お腹の饅頭を食べるそうです。
写真は、1955年、茨城県北部の大宮町鷹巣で撮影されたものです。
なんて素敵なお祭りでしょう。
私も子どもの頃こんなお祭りと出逢いたかった。今どきのゆるキャラなどとは大違いの、一生忘れられない奥深さです。
そんなおりもおり、3月6日の『東京新聞』に、「鹿島さま」を見つけました。
3月8日、9日のNHK放送センターと代々木公園で「ふるさとの食 にっぽんの食」という催し物が開催され、「東北応援ゾーン」には高さ4メートルの「鹿島さま 」が登場するそうです。
まあ、民間信仰でない方の鹿島信仰は、アイヌ討伐などの大きな力になっただろうことを思うと、複雑な気持ちにはなりますが。
貴重な資料を有難うございました。
返信削除大変参考になりました。
匿名さん
返信削除こんにちは。
集落のみんなでやっていたこと、それが今でも残っていてなんだか面白いこと、そんなことに遭遇すると、嬉しくなってしまいます。
以前、ダイダラボッチをつくり替えるのは8月第一日曜日と聞いて、見に行こうと思っていたのですが、その日が近づいて見ると、暑いです(笑)。こんな暑い時に作業するなんて、これまで思ってもいませんでしたが、農作業が一段落、ちょうどみんなの時間が取れるときだったのでしょう。
できたら、ちらっとでも見てきたいと思います。
ブロック塀の角を居場所にして座る横姿が、なんとも哀愁というか、雨に日も、風の日も、ここでひたすら、村の人々を守っているのですから、ねぎらいと慰労の声がけしたくなるような魅力がございますね。
返信削除貌は、怪奇ですが、泣けるほど温かかで、篤実なる神にしませば。
今回も、大変参考になる記事を読ませて頂きました。ありがとうございます。
月琴一代さん
返信削除冬になる前には一度見に行きたいと思っています。八月の初めには残念ながら跡かたもなくなくなってしまっていましたから。
大人形をつくるのに、一番苦労するのはやはり顔だそうです。できたら、誰もが震えあがるほど怖くしたいと思って描くそうですが、なかなか怖くならなかったりするそうです(笑)。また、見てきたら報告しますね。週末はいろいろ詰まっていて、まだ、いつ行けるかは未定ですけれど。