私はこれまで、アンギン編みという言葉を聞いたこともありませんでした。
「いったいどんなものだろう?」
『編布(アンギン)の発見-織物以前の衣料』( 滝沢秀一著、つなん出版、2005年)を読んでみました。
新潟県の中魚沼地方やその周辺地域の書籍や古文書などの中に、ときおり「アンギン」という言葉が書かれていました。
とくに、鈴木牧之(すずきぼくし、1770-1842)の見聞記、『北越雪譜』と『秋山紀行』 には、秋山郷(新潟県津南町と長野県栄村にかけて広がる、信濃川支流の中津川の中流及び上流地域)の庶民の暮らしに根づいているアンギンの姿が、生き生きと記されていました。
そのアンギンに着目して、探求の口火を切ったのは小林存(こばやしながろう、民俗学研究家、1877(明治10年)- 1961(昭和36年))でした。
小林は1905年(明治38年)、アンギンを見つけようと調査隊を組んで秋山郷を訪ねました。しかし、そのときはなにも見つかりませんでした。
以来、アンギンをさがし続けた彼が、やっとアンギンを目にしたのは1953年(昭和28年)、さがしはじめてから、50年の歳月が流れていました。見たのは小さな袋ものでしたが、小林はそれを持って、狂喜乱舞したそうです。
その後小林は、「完全なアンギンの実物を見る」、「原料の麻の種類を調べる」、「編み方を研究する」、「器具を発見する」という四つの目標を掲げて、再度秋山郷を訪れます。その時は残念ながら工具が見つからなかったため、依然として制作方法はわかりませんでした。
しかし、これら一連のことが新聞に載ると、いろいろな情報が寄せられました。
その情報の一つの刈羽群北条村の専称寺の「阿弥衣」を見て、小林は、俵編みの経糸(たていと)を巻くコモヅチの小型のものを用いればアンギンが編めることに気がつきました。ここで、アンギン探求は一気に進展したのでした。
1960年(昭和35年)、樽田(上越市安塚区)で、若いころにアンギンの制作を体験した松沢伝二郎を見つけ出したことで、長く幻の布とされていたアンギンの全貌は、ようやく姿を現すことになりました。
越後のいくつかの地域では、明治末期まで山野に自生する植物繊維を採取して、それを手づくりの工具で編み、仕事着にしていました。
つくられていたものは袖なし、前掛け、前当てなどの着衣と、袋ものでした。
材料はオ(苧麻(ちょま)、カラムシ)、オロ(アカソ)、イラ(ミヤマイラクサ)、まれにアサ(大麻)やシナでした。
1965年(昭和40年)、宮城県栗原郡一迫町の山王遺跡(縄文晩期)でアンギン編みの布の断片が出土しました。そして、それを皮切りに、その後全国各地の遺跡から、アンギンの圧痕、布片、繊維片などが、続々と出土しました。
それにより、アンギン編みは縄文時代中期後半には、ほぼ日本全土に分布していたことがわかりました。そして、ほとんどの地域でアンギンが渡来した織り布によって姿を消した中、越後だけで、ごく近代まで編み続けられていたことがわかったのです。
アンギンの制作者が男性だったということは、興味深いことでした。
何故男性だったか?
その昔、女衆は越後縮をつくるため、夏から苧績み(おうみ、越後縮の糸づくり)に着手しました。そして冬中それを織ったので忙しく、アンギンはもっぱら、農閑期に藁仕事をしている男衆の仕事だったのです。
誰もが、一冬に、一着はアンギンの袖なしをつくっていたそうです。
袖なしは、重いものを背負うとき衣服を傷めないための必需品でした。また、作業着としてだけではなく、風をよく通すので、夏は袖なしだけを普段に着ている人もいました。
しかし、生活に多用されていたアンギンは、明治初期に早々と姿を消してしまいました。
著者の滝沢秀一さんは、早くに消えたのは、それが男衆の仕事だったからと推測しています。
明治に入る頃から木鉢づくりや木鋤づくりなど木工品の需要が大きくなりました。そして、大正時代に入ると木材の伐採や搬出するための木流し、そして発電工事などに男手は駆り出されて、アンギンづ くりには手が回らなくなってしまったのです。
木工や手間稼ぎで現金収入の道が開けたのと並行するようにして、村々には外部から古着の行商人が入り込むようになり、冬仕事にアンギンをつくる必要はなくなってしまい、やがて忘れ去られてしまいました。
さて、アンギン編みの錘(おもり)のコモヅチの材料で、最も多かったのはタニウツギでした。
タニウツギは、芯のズイを抜くと管状になるので利用しやすかったのです。
私はコモヅチを鳴子と間違えていましたが、この本によると、ある私設資料館には、「コモヅチ」を「ナルコ」という誤った名称で保存しているそうです。あながち、私が買った骨董屋さんだけが間違えていたのでもなかったようでした。
アンギンを編む工具の一部のアミアシは、形よく枝分かれした木を選んで、クサビで半分に割り、ほぞ穴を開けてつくりました。
男たちは山に行ったりするとき、いつも枝ぶりのよい、アミアシに適した枝がないかと心を配っていたようですが、そのさまを想像すると、とてもほほえましい気持ちになります。なんだか見つけたときの嬉しさが伝わってくるようです。
そのアミアシに、経糸を掛ける横木のケタを通して編み機の完成です。
ケタには、経糸を下げるための切り込みを入れました。現在残っているケタを見ると、切り込みの間隔は8ミリ、9ミリのものが最も多く、まれに5ミリ、あるいは1センチ以上のものもありました。
その越後の女衆が苧麻(ちょま、カラムシ)を摘み、それで糸をつくり、機織りもしたという、小千谷縮(越後縮)です。
戦争中に結婚した母は、結婚に際して着物をそろえようにもほとんど売っていなかったそうです。そんな中、母の叔母が奔走してあつらえてくれたという、数少ない着物の中の一枚に、小千谷縮がありました。
母から早くに譲り受けて、若い頃はよく着たものです。
経緯(たてよこ)絣です。
もっとも、最近の小千谷では、輸入麻糸を使っているものと思われます。
それにしてもアンギンを男性がつくっていたということに限りなく興味を惹かれます。俵を男性がつくることには何も感じませんが、男性も女性も着ていた袖なしを男性がつくっていたと思うと、なんだかわくわくしてしまいます。
春さんってヨイショ抜きですごーい
返信削除北越雪譜と秋山紀行・寺田虎彦・福翁自伝が私のベスト3です。
ベスト5になると利根川図志・尾崎喜八の
「山の絵本」とつづきます。うれしいなー
今でも本箱の中に並んでいる愛読書です。
ええ私も、すごーいと思いました。
返信削除全然知らないことばかりで…。
それをどんどん調べるエネルギーとか速さとかもすごーい!です。私は本一冊でどれだけ時間がかかるか…。たぶん途中、というか最初で放り出しそう。
昔の人が野山の草の繊維を取り出して布を編むのもすごいですけど…。
私は「ミヤマイラクサ」という言葉で、昔読んだ童話の「白鳥の王子」を思い出しました。確か、11人の王子様が白鳥に変えられ、その呪いを解くために妹がイラクサから糸を取って11枚の上着を編む…というようなもの。今ちょっと見てみると、実に不条理な話ですが…、上着一枚編むだけでも難しいのに11枚って!
戻って、やはり、アンギンを知っていれば何かの時サバイバルに役立つかも…。
昭ちゃん
返信削除私、あまり何も知らないから、読んでみたんです。面白かった。昔の生活、人と「竹」との関係とか「布」との関係は、特におもしろそうで。
そうなんだ、昭ちゃんは鈴木牧之が好きだったんですね。私は名前も知りませんでした。私のベストスリーって何かなぁ。河口彗海の『チベット旅行記』は入るけれど、あとは何だろう?無人島に行くなら持って行く本をあと2冊、じっくり考えてみます(笑)。
そうそう、『アンギンと釜神さま-秋山郷の暮しと民具』という本も買ったので、これから楽しみます。ちらっと見たけれど、道祖神人形とかいっぱいあって、面白そう。昔の秋山郷に行ってみたいです。
karatさん
返信削除そんな、すごくないです。読んだだけだから(笑)。寝るとき読む本は手にするとすぐ眠くなる本にしています。面白い小説だったりすると「あと少し、あと少し」なんてついつい夜更かししてしまいますから。それでアンギンは寝られる方だと思って読んだんだけど、そうじゃなかった(笑)。昔の生活が伝わって来て、ついつい夜更かししてしまいました。
草の繊維を取り出して布にするってすごいですよね。それもアンギンの場合男が。確かにミヤマイラクサの棘ってものすごく痛かったらしいです。軍手もなかっただろうから、どうやって採ったのか。まあ、糸になると思えば、何でもできたのでしょう。『白鳥の王子』の作者も、イラクサから繊維が採れることを知っていてこの本を書いたのかもしれませんね。
小林存がアンギンをさがしていたときだったか、どこかの家で樽にコモヅチがいっぱい入っているのを見つけて、そこの家のおばあちゃんに何かと聞いたら、「さあ」って、何も知らなかったみたいです。アンギンはあっという間に忘れ去られちゃったんですね。
まさかのときにアンギン編みが役に立つかって?無理ですよサバイバルなんて(笑)。それより着ないTシャツをパッチワークして寒さをしのぐとかの方が現実味があります。なんて、そんなときは、やっぱりおしまいよ(笑)。