その節が、配置よく三つ並んでいると、顔に見えてしまいます。 一度顔に見えたら、いつでも顔に見えます。
このごろは、日がすっかり短くなり、目覚める5時はまだ真っ暗、やっと薄明るくなるのは5時半ごろです。
というわけで、目覚めたときに寝室の天井をのんびり眺める機会は夏のようにありません。それでも、梁や柱の節の配置を知っていて、目を走らせるのは、寝室だけです。
これが、いつも目が合う節の顔です。
これもそう。
もっとも、横になっている間は親しんでいる節の顔も、ベッドから起きあがったとたんに、頭から完全に消えてしまいます。
そういえば小さい頃、熱を出したときはいつもの六畳間ではなくて、床の間のある「お座敷」に寝かされていました。お座敷が一番奥にあったので、邪魔にならなかったのでしょう。
昔風の天井で、小さい板が並べて張ってあり、節はありませんでしたが木目があり、六畳間の天井ほど黒ずんでいませんでした。
その木目を龍に見立てたり、他の動物や顔に見立てて、退屈を紛らわしていたものでした。
これも元気になったとたんに、すっかり忘れてしまうのが常でした。
昔が良いわけがないけれど懐かしい思い出が多いですね、
返信削除雨戸の節穴から外の洗濯物が倒立して写ったり(ピンボールカメラの原理ですね)
熱を出すと天井の節目で怖ものを想像したりまるで子規の随筆「ランプの影」です。
昭ちゃん
返信削除そうそう、雨戸の節穴からの倒立した景色は障子に写りましたね。
祖母の家の二階へは、使わないときは天井にぶら下げる「梯子段」がついていました。梯子段の上の薄暗い穴から誰かがのぞいているようで怖かった。私が物心ついた頃は、二階は使ってなくて押し入れの中はネズミの天下。いつも暗くて、ネズミ臭くて、1人では行けませんでした。
雨戸、サル、コザル、懐かしいですね。