2015年12月11日金曜日

中山開拓地

第二次世界大戦の敗戦で、日本は台湾、朝鮮の既耕地を失いました。加えて、引揚者や復員によって人口は大幅に増加し、日本列島全体が食料不足で苦しむことになりました。国は飢えを緩和するため、食料自給を最重要課題と位置づけ、人々に開拓を奨励しました。

筑波山系の中腹にある中山開拓地は、もとは国有林でしたが、昭和21年(1946)に10世帯、22年(1947)に20世帯が入植しました。
標高140メートルの山の中に、忽然と人口100人あまりの村ができたのですが、生活は厳しく、昭和30年(1955)ごろには、その三分の一が山を下りました。

1990年ごろのほそのとみこさん。八郷町民文化誌『ゆう』5号より
 
ほそのとみこさんのご夫婦と息子さんの三人が入植した土地は東斜面で、篠竹が生い茂る、傾斜の強い土地でした。
一家は、飢えと闘いながら、クワとスコップとモッコで家を建てるための平らな土地をつくり、篠を刈って、少しずつお茶やミカンを植えました。
また、このあたり一帯のお茶葉を加工する作業も引き受けていました。

昭和40年代のお茶畑。『ゆう』5号より
  
昭和40年(1965)には電気が引かれ、お茶をつくる機械を入れることができ、中山開拓地の繁栄はピークを迎えました。しかし、年ごとに開拓農家は減り、とうとうほそのさん一家だけ残りました。
昭和43年(1968)年に一人息子さんが、昭和55年(1980年)にお連れ合いが亡くなったのちも、とみこさんは一人で十年頑張り、やがて土地を町に返して去って行かれました。

そのほそのさんのお茶畑は、すっかり篠竹に覆われてしまっていました。
そこをOさん夫妻は、Kさん夫妻やYさん夫妻と、月に数回の割で手入れに訪れ、篠を刈り、お茶畑を取り戻して公園にしようとされています。

なんて物好きな!
いまではそこは市有地ですが、市には復元予算はまったくないそうです。
戦後の開拓時代と違って、車もありますし、刈り払い機もありますが、農村生活はやることが山のようにあります。そんななかで、Oさんたちは、土地やほそのさんの努力に共感され、復元してみたいという一心で、通っているのです。
「いいところだよ。行ってみる?」
と誘われ、行ってみました。


まだまだ、家と製茶工場の周りのほんの狭い場所しか草は刈られていませんでしたが、旧中山開拓地からの眺めは絶景でした。はるか向こうに地平線が見えます。
この眺めは、家族で暮らした年月、そして一人で暮らした年月、とみこさんの慰めになったに違いありません。

ほそのさんたちの苦労はすっかり篠竹に覆われていたのですが、Oさんたちが篠竹を刈った場所では、ひょろっとしたお茶の木が現れていました。
お茶の木は強いのです。


枝を横に広げた、木姿のよいビワの木も救出されていました。
コブシ、グミ、カエデ、キンカンなどなど、家の周りにはいろいろな木が植えられていました。

とみこさんは茨城県古河市の製糸工場の娘で、娘時代はカマもクワも握ったことがなかったそうでした。








6 件のコメント:

  1.  当時の言葉で「集団帰農」です。
    八ヶ岳山麓の甲斐大泉村も同じような運命をたどりました。
    責任者のU将軍は戦犯になるし、
    過酷な現状だったようでよく辛抱されましたね。


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  2. 昭ちゃん
    集団帰農と言ったのですか。本当によく辛抱なさいました。17年目くらいで食べられるようになるまで、こんにゃくをつくって売ったり、いろいろなことをなさったようです。
    書きませんでしたが、とみこさんはお連れ合いが亡くなられるとすぐに、「拓懇」と刻んだ、幅4m、奥行き3mの個人としては考えられないほど大きくて立派な石碑を建てられました。
    碑の裏には、夫の「細野喜平の歩み」が記されています。昭和7年第一次武装移民として満州に渡航、極寒の異郷で奮闘、敗戦後はシベリアに抑留、幸運にも昭和22年に復員、疲れをいやす間もなく中山に開拓者として入植、飢餓に耐えながら一鍬一鍬切り開き、数年かけてお茶の栽培が最良と決断、一万平方米以上の茶園を完成させ、製茶の技術も磨き、地域周辺の利便に供した、などなど刻まれています。
    荒れ果てた傾斜地を家族一体となって切り開いた当初の労苦のすさまじさが伝わってきます。とみこさん一人になっても、体が動かなくなるまで、ここを離れがたかったのでしょうね。
    この碑は、これから何千年も残って開拓民の生活を後世に伝えることでしょう。

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  3.  満蒙開拓義勇軍の初期ですね、
    当時の満州は五族協和の旗印で建国中ですが、
    匪賊・馬賊の横行する時代ですね。
     私の親友は昭和14年に内原の訓練所から
    渡満終戦で行方不明です。

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  4. 昭ちゃん
    右手に鍬、左手に銃。今の日本人にはピンときませんが、地球上には今でもそんな生活を余儀なくされている人たちが大勢います。ピンポイントで見れば、様様な理由がありますが、みんな生身の人間ですから、やりきれませんね。
    あのころ、家族が離れ離れにさせられ、何とか再会を果たした人もいれば、果たせなかった人もいました。とみこさんも喜平さんも家族がそろった嬉しさで何でもできたのかもしれません。
    藤原ていさんもそうですが、とみこさんも子どもを抱えて、満州から朝鮮半島まで、乗り物がないところは歩いてでも帰国したそうで、そんな人々には、生きる意志を感じます。

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  5. お茶の木が現れたり・・、いいですね。近くだったら手入れのお手伝いしたいです。

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  6. Blue moonさん
    篠竹に覆われたお茶の木は、形がめちゃめちゃになっています。私も家のまわりで何本も救出しました。毎年、周りの竹や草を刈ってやって、枝を切りそろえて、数年経つと密になりますが、手入れを怠ると、密になりません。最初は意気込んでいても、なかなか続かないものです。
    でもOさんたちよくやっている!結果がついてくるのだから、達成感もあると思いますが、夏などもう自分の家の草刈りに追われて、とてもそんな気になれません。
    では、草が生えない季節はどうかと言えば、草刈りに追われてできなかったことをするので、結局、お手伝いができませんねぇ(笑)。

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