2016年1月5日火曜日

羽子板

小さいころ、お正月には羽根つきをしていましたが、どんな羽子板を使っていたか、全然覚えていません。お正月が近づくと、よく上がる羽根を選んで買うのが楽しみでしたから、羽子板は家にあったはずです。もしかしたら、一枚五円くらいの、絵もなぐり描きしたような、とても雑なものだったのかもしれません。


羽根つきに、押絵の羽子板を使うことは、もちろんありませんでしたが、こんなに美しい絵が描かれた羽子板も使いませんでした。
この羽子板は、いつごろのものでしょうか?
『それいゆ』、『ジュニアそれいゆ』の中原淳一の絵の影響が感じられるので、1950年代から60年代のものでしょうか。


一部、こてで焼いてあります。当時の箱など桐細工には、よく焼きごてが使われていました。


顔は手描きです。


数年前に骨董市で買ったもので、羽根をついた跡が、点々と引っ込んでいます。


この羽子板はデッドストックでした。


色がずれているので、版画の手法で色を重ねたのでしょう。
時代は上の羽子板より新しいものですが、まだ少女漫画の影響はほとんど受けていないようですから、やはり1960年代でしょうか。


上の羽子板は、簡単ですが裏にも彩色してありますが、下の羽子板は、裏はスタンプで済ませています。


男の子たちしか育てなかったので、羽子板とは無縁だったので、その後の羽子板は知りません。
プリントになるなど、つくり方も、絵も、ずいぶん変わったことでしょう。







6 件のコメント:

  1.  純一や虹路まがいの一連の絵が流行りましたね、
    昭和24年前後でしょうか。
    もっと古い話ですが有名な画家でも無名時代はいろいろしていますね。

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  2. 昭ちゃん
    蕗谷虹児を知っているんだ、男のくせに、隅に置けないですね(笑)。
    少女雑誌の巻頭のカラーページの絵は、だいたい蕗谷虹児でした。子どもには美しいというより、ちょっと怖かったです。
    それに比べると、中原淳一は怖くなくて安心して見られました。顔や首が長くて気持ち悪いのもあったけれど(笑)。
    私は勝山ひろしが好きでした。彼の絵はなんとなく、松島トモ子ちゃんを思わせるところがありました。お父さんが奉天で戦死したトモ子ちゃんは、当時の女の子たちのスーパーヒロインでした。

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  3.  タネをあかしましよー
    18から知っている元カノがなんでも持って我が家え、
    「昭ちゃん好き」っと。
    その中のスクラップに、いまは宝物です。
     トモ子ちゃんに似ていますねー
    その後母物のヒロインで泣かせたとか、、、、

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  4. 昭ちゃん
    あっはっは、いいお連れ合いですね(^^♪
    私はスクラップも何も持っていません。でも、挿絵家の名前を憶えていて、ネット検索したら、今はずらっと出てきます。
    当時の物語の、少ない挿絵からイメージを膨らませるというのは、考えれば素晴らしいことでした。でも、子どもだったから、どうしてお話の全部がハッピーエンドではないのか、得心がいきませんでした(笑)。
    松島トモ子+三益愛子の「母もの映画」は最強のコンビでしたね。みんな涙を絞らされました。

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  5.  くどくど、、、
    私の戦後は洋画と四球ラジオでも聞ける進駐軍向け放送です。
    東京はWVTR小倉はWLKHでのちにFENに呼称が、、、
     イーストマンカラーのアメリカ映画
    水彩画のようなイギリス映画・赤みの強いアグファーカラーのソ連映画と
    思い出は鮮明です。



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  6. 昭ちゃん
    ここでちょっと年の差が出てしまいましたね(笑)、どれも知りませ~ん。
    ラヂオは祖父母の聞くHNKだけ、今でも「昼のいこい」の音楽(当時と変わらず)を聞くと、次の番組としては、「尋ね人の時間」が始まらないのを不思議に思ってしまいます。「大連で行方不明になった○○さんを、△さんが探しています」というのが、延々と続いていました。
    最初に見た映画は何だろう?「母もの」でなかったら、「鞍馬天狗」あたりかもしれません(笑)。

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