しばらく前に、昔ながらの今戸人形を、東京の土や昔の顔料にこだわって制作されているいまどきさん(吉田義和さん)が、ご自身のブログに、歴代の丸〆猫が一堂に会している写真をUPしていらっしゃいました。
後列左三体が戦前までの丸〆猫、右二体が嘉永安政(江戸末期)のころの丸〆猫、そして前列三体は、今戸人形最後の、生粋の人形師(今戸焼は窯がたくさんあり、瓦や日用雑器など、いろいろ焼いていた)の尾張屋、金沢春吉翁(1868-1944、明治元年-昭和19年)による作をお手本に、いまどきさんが再現されたものです。
嘉永安政スタイルの招き猫は、近世遺跡から出土した丸〆猫をお手本に型を起こし、色はすっかり剥げてしまってわからないので、いまどきさんは江戸後期の作と思われる今戸の伝世品の色味で再現されています。
しかし、歌川広重の『浄るり町繁華の図』(嘉永5年、1853年)には丸〆猫が描かれているので、19世紀半ばには存在したことがわかります。
『浄るり町繁華の図』の、丸〆猫(招き猫)の部分です。
『福の素』13号、1997年より |
郷土玩具のバイブル的な版画集、『うなゐの友』(清水晴風著、1891から1913まで発行)には、全国の郷土玩具が収録されていて、第一編刊(明治24年、1891年)に、丸〆猫も紹介されています。
今でこそ招き猫は各地でつくられていますが、手を挙げた猫、すなわち招き猫は、今戸で発祥したことは、ほぼ間違いないようです。
さて、いまどきさんが復刻された丸〆猫を、私が初めて手にしたのは、1997年、日本招猫倶楽部の会誌『福の素』に載っていた、丸〆猫の記事がきっかけでした。
当時、いまどきさんはまだ高校の先生をなさっていて、古い今戸の招き猫が手に入らないなら自分でつくってみようとつくられたのを、頒布していただいたのです。
以後、ご縁があって、いまどきさんの丸〆猫は、少しずつ集まっていました。
いまどきさんが、ご自身のブログに歴代の丸〆猫をUPしたとき、我が家の丸〆猫とを見比べてみましたところ、ほとんど持っていましたが、二つばかりありません。
そこで、注文しておいたのが、出来上がって届きました。
左の猫は、いまどきさんのお手元にあるものを再現したもの、右は、嘉永安政スタイルのもので、出土したものの、色が剥げていてわからないので、彩色は現存の江戸後期と思われる「座猫」の配色で再現されたものです。
右の猫の方は、心もちクリーム色に見えますが、これは胡粉に雲母の粉を混ぜてパールカラーに仕上げてあるからです。
昭和の戦前まで続いたスタイルの猫たち。比べてみると、お顔は少しずつ違います。
というわけで、いまどきさんが再現なさった丸〆猫のすべてが、我が家にもそろいました。
おやっ、尾張屋写しの臥猫の前垂れの色と、敷物の色が、いまどきさんの写真のものと違っています。前垂れは通常、緑か「紫土べんがら」で彩色されているようですが、これは「きはだ」が褪せたのでしょうか?うっすら色がつき、全体に金粉が蒔いてあります。
直接いまどきさんから手に入れたものではなく、浅草の助六で買ったものだと思いますが。
嘉永安政スタイルの一体に、「本丸〆」とあるのは、浅草土産として爆発的に売れたとき、窯元が「我こそは本家本元」と差別化を図るために「本」の字を入れたものだそうです。
いまどきさんの丸〆猫は、毎年暮れの浅草の羽子板市で、「人形の吉徳」の出店に、羽子板とともに並びます。もちろん、注文でもつくっていただけます。
さて、巷には、招き猫は今戸焼きが元祖か、東京豪徳寺が元祖かという論争(?)があります。
どちらも、招き猫が誕生するに至った物語つきですが、これまで豪徳寺あたりに窯元があったという話はありません。豪徳寺の参拝土産に売られる招き猫は、今は常滑でつくられていて、その前は美濃でつくられていました。
さらに古作がいろいろありますが、いろいろな産地から運ばれたものと思われます。
『日本郷土玩具辞典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)には、豪徳寺の招き猫として、この写真が掲載されています。とても小さくてかわいらしいものと書かれていますが、いまどきさんはこれを今戸でつくられたものと見ていらっしゃいます。
著者の西沢笛畝(1889-1965)は日本画家でしたが、人形や玩具の研究家であり、郷土玩具の収集家としても知られていました。これも彼自身の収集品だと思われますが、そのコレクションが今どうなっているのかは不明です。いまどきさんも実物を見たがっていますが、ご覧になったことはないそうです。
関東大震災や東京大空襲で、多くの今戸焼は失われました。しかし、西沢笛畝が『日本郷土玩具辞典』を上梓したのは、最晩年の1964年です。その時にはこの豪徳寺の招き猫は、お手元にあったのでしょうか?
いまどきさんはこの写真だけを頼りに、豪徳寺招き猫の型を起こし、試作されました。
丸〆猫のおまけでいただいてしまいましたが、これはまだ試作段階、もっと資料が見つかったらそれらを参考に、昔の姿に近づけていくそうです。
手を挙げて招いている猫は今戸発祥が確かだとしても、「招き猫」という呼称をつけたのは、もしかしたら豪徳寺かもしれません。あるいは、全然別のところかもしれません。
まだまだ謎の残っている招き猫です。
ありがとうございます。丸〆猫の臥姿ですが、はじめて取り組んだ当時は自前のお手本がなくて、招き猫の収集家の人からお借りして型を起こし、彩色しました。画像でご紹介いただいたのは当時の配色パターンで、よだれかけはバイオレット染料を膠で淡く溶いた色、台座の側面は朱色と緑という配色でした。その後、我が家に来たお手本を含めて尾張屋さんの配色にはいくつものパターンがあることを知り、今は朱と群青のパターンにしています。豪徳寺の猫は実物に対面したことがないですが、枯れた筆など、今戸の一文人形にも通ずる味わいのようで、実際今戸かわかりませんが、以前からやってみたいと思っていました。丸〆猫は嘉永5年(1852)の「武江年表」や「藤岡屋日記」の同年の項にその流行が記されているのと同年描かれた広重の錦絵「浄るり町繁花の図」に描かれているということがはっきりしているのと、「藤岡屋日記」の文中に「招き猫とも丸〆猫とも」という具体的記述があります。
返信削除いまどきさん
返信削除こちらこそ、ありがとうございます。いまどきさんが丸〆猫の再現を試みなかったら、浮世絵で見るだけのものだったのが、こうして手に取って愛でることができて、嬉しいです。
「浄るり町繁花の図」と同年代の「藤岡屋日記」の中に、「招き猫とも丸〆猫とも」という記述があるということは、「手を挙げている猫」というだけではなく、今戸が名実ともに「招き猫」の発祥の地なのですね。それがわかっているのに、豪徳寺にも物語があるのが変な気がしますが、その昔から、人を呼ぶための地域おこしとか、いろいろあったのでしょう。
「浄るり町繁花の図」は素晴らしい絵ですね。売っている人や買っている人の服装がおかしい(笑)、それに焼酎やら筍、おもちゃをいろいろ売っているのも面白い。安産のお守りとして、子育ての絵によく描かれている「犬」は、街で商うものではなくて、神社の土産物だったのでしょう。
1850年代半ばはもう江戸も末期ですが、参勤交代などで、招き猫を含む江戸文化が、全国に広がっていって、伏見や住吉でも招き猫がつくられるようになったのでしょうか。