2016年9月9日金曜日

暮らしの道具


しばらく前に、八郷じっけん農場の面々が遊びに来たとき、研修生のIさんが、『昔の暮らしの道具事典』(小林克監修、岩崎書店、2004年)を借りて行きました。
そして、返しに来ました。
「すごく面白かったです。存在を初めて知ったものもあったし、名前は聞いたことがあっても、絵も見たことがないものばかりだったから」
「えぇぇぇ!」
何気なく貸して、何気なく返してもらうつもりが、びっくりしてしまいました。
 

「まあ、あがんなさいよ」
この本は目次にも絵がついているので、ざっと見渡してみます。


合計6ページある目次の中で、私に馴染みのないものは、「火打ち箱」と「吸入器」だけでした。


よくよく見ると、「火打ち箱」は明治時代に消えていました。これでは、見たことがなかったのも当たり前です。
そして、「吸入器」は喘息でもなかったので、身近にはなかったのです。
Iさんにとっては、ほとんど全ての道具が私にとっての火打ち石状態だったのです。


「見たことのあるものはなぁに?、火消壺は?」
「ないです。唐箕は農場にあります」
「農場では味噌の樽はどんなものを使っているの?」
「プラスティックです。いまどき木の樽なんて手に入らないのでしょう?」
「そうでもないわよ。毎年味噌づくりの季節になったら、生協には木の樽の予約が載っているけど。でも、農場で使うような大きな樽なら別注で値段が張るかもしれないわね」
「プラスティックのなかった時代の生活なんて考えられません」


そうか、プラスティックのなかった時代と、プラスティックが何にでも使われるようになった時代とに、大きくはわけられるかもしれません。

最近、長くサラワクに行っていたYくんに写真を見せてもらいました。
高い木がうっそうと樹冠を並べ、空さえ見えなかった熱帯林は完全に消えていました。
かつて、移動の民プナン人を守ろうとしたスイス人Mは殺されてしまいました。日本で一生懸命反対運動をしていたKは、絶望のため重いうつ病にかかって再起不能になりました。
それほどの力を注いで、現地で伐採反対運動をしていた人たちを支えようとしていた人がいたにもにもかかわらず、状況は少しもよくならなかったどころか、熱帯林は、私が思っていた以上に、完全に失われていました。もう、言葉を失うほどの写真ばかりでした。

熱帯林があったころ、人々の生活は熱帯林に依拠していて、食生活も豊かでした。でも今、サラワクの農村は、ただの「何もないところ」に変わってしまったようでした。
かつて、美しいラタンの籠を編んで使っていた人たちは、プラスティックの籠を使っているそうです。サラワクのラタンはうっそうとした森の中で、長く長く伸びていましたが、乾燥したところでは育たないのです。

Iさんのくれた唐辛子の飾りもの

一年半の研修を間もなく終えるIさんは、 八郷じっけん農場で知り合ったパートナーの待つ愛知県に行き、じっけん農場のような、農を広めるために研修生を受け入れたりする仕事をしていくそうです。
Iさんが私の年になったとき、『昔の暮らしの道具事典』がつくられたとしたら、一体どんなものが載っているのでしょうか。






6 件のコメント:

  1. 当たり前ですが、
    燭台意外はほとんど見てきましたが火を起こすことから
    一日が始まりますね。
    吸入器のアルコールランプは親に内緒でよく遊びまさいた。

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  2. 昭ちゃん
    燭台は、今我が家にあります(笑)。油を燃やすものではありませんが。吸入器だけは全く馴染みのないものでしたが、そんなに普及していたのですね。
    彼女は洗い張りの板に感心していたので、我が家にある伸子張りで実演したりしていたら、張り板が祖母の家のどこに立てかけてあったか思い出して、心の中で懐かしがってしまいました。いつも、干すところが決まっていたのですね。
    本当に、1960年代を境に、世界中の道具が変わってしまいました。

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  3. そのころから電化製品が、
    昭和27年真っ先にニクロム線の電熱器に鍋が乗りました。
    父が入院し(昭和32年)夏の病室に扇風機・三人目ができて洗濯機です。

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  4. 昭ちゃん
    よっく覚えていますね(笑)。わたしはそのころまだ当事者じゃないから、扇風機も、氷を入れる冷蔵庫も、洗濯機もいつだったか覚えていません。氷屋さんが毎日氷を配達してくれていました。
    掃除機だけは覚えています。アメリカから幼児を二人抱えて帰ってきて、実家に行ったら掃除機がある!一度借りてきたら、母から電話で、「やっぱり必要だから返して」って(笑)。それが1972年ごろだから。それまで我が家には掃除機はなかったわけです。
    その研修生の彼女と、「昔は今より人口が少なかったけれど、道にも田んぼにも人が溢れていたのよね」なんて話もしました。

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  5.  子供のころ(昭和11年ごろ)
    我が家には氷を上部に入れる冷蔵庫がありました。
    外は銅板ですが脱臭剤などない時代は結構匂いますよ。
    木風呂は練炭で沸かしました。
     昔の家は夏は涼しく過ごす工夫が多くありましたね、
    二階の刷き出し口とか、 今はまるで密室です。
    もっとも今は高温ですが、、、、。


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  6. 昭ちゃん
    昭和11年に木の冷蔵庫ですか。すごいなぁ。両親の家には、昭和30年代だと思います。しかも、叔母の家のをもらったのだったかなぁ、そう長くは使っていませんでした。
    鉄サッシの入ったコンクリート四階建ての社宅(一棟だけでしたが、団地建築様式の走りかな?)に住んでいましたが、ガス風呂は楕円形の木の桶で、背が高いので手前に木の小さな椅子を置いて入っていました。

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