2017年4月11日火曜日

ルアンナムターの布

1980年、タイに流入した難民のキャンプで、初めてラオスの織物に出逢いました。
空引き機(そらびきばた)という、日本では江戸時代より前から、すでに特別な職人集団しか使わなかった織り機を、ラオスの一般女性たちは、いとも簡単に操って紋織(もんおり=にしきおり)を織っていました。

紋織は、帯やネクタイなどのように模様を織り出す織り方で、1980年当時は、京都の西陣などで、模様の複雑さに合わせて、数百枚、数千枚と必要な模様綜絖(そうこう)を、ジャガードというパンチカードにおき替えて(今はコンピュータ)、動力で織ることはできましたが、手機で織る技術はとうの昔に失われていました。

ところがラオスの難民たちは、夜の闇に紛れて、サーチライトの合間を縫って、泳いだり小舟を出したりして命からがらメコン川にわたってタイに渡ったというのに、たくさんの女性たちが、模様綜絖と綜絖、そして筬(おさ)に経糸(たていと)を通したまま織り機から外して、難民キャンプにまで持ってきていました。
そして、難民キャンプの竹づくりの仮設小屋や立ち木にその経糸を結びつけて張り、ゆったりと機織りをしている姿に仰天したものでした。

それほど、日常生活に埋め込まれているラオスの織物に、谷由紀子さんが出逢い、魅せられ、ラオス北部の村にとどまって、日本に紹介し続けているのが、ルアンナムター村の布です。
その布を、今回のワークショップの参加者の一人のAさんが、谷さんの友人として普及のお手伝いをされていて、八郷暮らしの実験室に持ってきていらっしゃいました。
 
谷さんが、ルアンナムター村の人々に寄せる思いと葛藤は、ネットの時代ですから、彼女自身の言葉で読んでいただくとして、ここでは布だけを取り上げてみます。


「豆敷き」は、大作ばかりでは値が張るので、布を見た人が気軽に買えるようにと考えられたもので、コースターより、ちょっと大きめです。

ルアンナムター村の、谷さんのプロジェクトの参加しているレンテン(=ラオスの少数民族)の人々は(150人くらいだったか)、綿を育てて収穫し、糸を紡ぎ、染め、布を織るという、布づくりの全工程をされています。また、やはり谷さんのプロジェクトに参加しているほかの民族グループの人々は、蚕を育て、糸を繰って、絹織物をつくっています。
ただ、ルアンナムター村は、中国との国境に近く、近年、近代化の波はいやおうなく押し寄せ、中には、手仕事を捨てて、工場に働きに行く人もいるそうです。

そんな中、購買者にとって買いやすいからと考えられた豆敷きは、村の人たちにとっても、つくりやすいものとなっているそうです。
というのも、少しの布があれば、どこででも、いつでも刺繍できるからです。


これは、使い古した布に刺繍した豆敷きです。
それでも刺繍するときは、少し硬い方がしやすいのか、裏に使っている布はもっと柔らかくなっています。


裏布の一角に刺繍がありますが、繕うだけでなく、伝統的にはサインとして刺繡もしたようなので、どちらかわかりません。
繕いでしょうか?


もう一枚は、とても几帳面な人がつくった豆敷きです。
布は、細く紡いだ糸でカチッと織られています。 それに、刺繡の細かさもさることながら、縁のステッチがすごい!
もちろん、手縫いです。
ちなみに豆敷きは百人百様で、谷さんも今では、一目でだれがつくったものかわかるそうです。


じつは、ルアンナムターの布を、私は前から一枚持っていました。
『季刊銀花』という雑誌で、谷由紀子さんの布の特集をした時、特別企画として、『季刊銀花』を直接定期購読したら、ルアンナムターの布を一枚上げるというのがありました。
私は、町の本屋さんに予約購読していたのですが、布に惹かれて契約を解消し、出版社から直接購入することにして、この布をいただいたのです。
その後、間もなく『季刊銀花』は突然の廃刊を迎え、町の本屋さんも店を閉めてしまいました。


この布にも、一ヵ所刺繍がありましたが、これはレンテンの、「我が家のものだ」という印だったのでしょうか?
もっとも、谷さんによれば、濃く染めた布百枚の中から、レンテンの人たちは自分のつくった布を選び出すことができるそうですが。
 

ルアンナムターの布は、「奇跡の布」とも呼ばれています。
というのは、本来は家族のために愛をこめてつくった布が、今では商業ベースに乗りながらも、その質が失われていないからです。
「売る」ということになれば、早く多くつくりたくなり、質が落ちます。そのため、時間を考えず、ひたすらつくるという考え方は、地球上のどこででも失われてしまいます。

 




2 件のコメント:

  1. 春姐さん上等舶来 昔の物は貧しいと
    どんどん変化していく時代は見直すどころではなくなり
    民芸品と呼ばれてしまうのでしょー
     儀両親は炭焼きでしたが農家でも手作りの道具が多くありましたね。
    漂着物の漁具でも手作りや補修した跡を見ると
    大事に使っている様子が良く解ります。

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  2. 昭ちゃ
    心のこもり方でしょうね。それも邪心のない、自分が納得のいくものをつくるといった心のこもり方があるのとないので、できたものが全然違ってきます。
    時間をお金に換算しないでつくったもの、使いやすいように工夫し大切に使ったものの美しさ。骨董市で見かけるものたちは、ほんのちょっとだけ古いものなのに、「もう今ではこんなもの誰もつくれないよなぁ」というものにあふれています。
    ただの縄でさえ、心をこめてつくったものは美しいですよね。

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