母方の祖母が髷を結うときに使った手絡(てがら)です。
手絡は、こんな感じに使いました。
母自身は、瀬戸内海に面した宇野で育ちましたが、私が知っているころ母方の祖父母は、岡山市郊外の祖母の実家の屋敷跡を借りて住んでいました。
岡山空襲の時、母屋は焼け落ちてしまいましたが、門の近くの建物と蔵だけが焼け残って、家の跡と思われるところは一面畑として耕されていました。手絡は、その蔵の中にありました。
その家に遊びに行ったとき、畑のネギ坊主を人形に見立てて遊んでいたら、祖母だったか母だったかが、蔵の中から手絡を出してくれたので、それを着物にして遊んだことがありました。
そんな手絡を、捨てるのはもったいないと、母が綴り合せてみたものの、どうにもならなかったのか、途中で投げ出したものです。
これらは、京鹿の子と言ったものでしょうか?
絞り染とは、無地に模様をつくりたいという欲求からできたものですが、
絞り染めはインドで発祥しました。その後、アジア、中東、アフリカなど広域に伝播していますが、もともとは、無地に模様をつくり出すために考案された手法でした。
そのため、「しぼ」(縫い縮めたり縛ったりしたときのでこぼこ)は洗ったりするうちに取れて当たり前、むしろ伸ばして使うものですが、手絡や帯揚げなどは、しぼがそのまま残された形で使われてきました。
手絡は小さい布ではありますが、それでも縫い縮めるのは、かなり手がかかったことと思われます。
母方の祖母は1890年代の生まれ、わりと長く髷を結っていました。
真ん中に立つ、大きい方の女の子が母です。
私の母は、日曜日に95歳になります。
ずいぶん前から耳が悪く、込み入った話はしたがらないので、これを何にするつもりだったか訊くことはできませんが、何かにできるかなぁ?
難しいところです。
私が1月で92だから苦労された先輩ですね、
返信削除私も最後の補充兵(ホー助)で「知足安分」の世代です。
昭ちゃん
返信削除戦時中に青春時代を送ったというのは苦労したということでしょうね。
母は、戦後すぐは父が抑留されたままで、やっと父が帰ってきたと思えば、祖母が私と弟を放さない。絵にかいたような理不尽な姑で苦労したと思います(笑)。