一年生の夏に、ゼミの先生に連れて行ってもらったマレーシアのサラワクに魅せられ、在学中に何度も一人で訪れ、長期滞在も経験しました。
そして、サラワクで出会った、先住民のプナン人やカヤン人のことをもっと知りたいと、4月から京都大学の大学院に行くことになりました。
そのWくんが、大学に戻る前に、サラワクの籠とともに遊びに来ました。
とWくんが持って来たラタンのバッグたち。行きがかり上、彼が大学院を卒業して帰ってくるまで、家で預かることになりました。
人目につくところに置いておきたいし、それでは埃になるし、どうしよう、思案中です。
籠はすべてプナン人が編んだものです。
サラワクのバッグは、紐通しのところに特徴があります。リュックのように背負いますが、口が適当に絞れて、でも閉まり切らないので、入れたり取り出したりするのが楽で、とくに森の中では使い勝手の良いものです。
どの籠も、Wくんがプナンの友人知人たちからもらったもの、さぞかし、一つ一つに思い出が宿っていることでしょう。
私も、約4時間の行程と言われて、カヤンの村からプナンの定住地まで、プナン人の案内で熱帯林の木の下を歩いて行ったことがありました。結局、往路は11時間もかかり、へとへとでしたが、復路はそれほどではなかったので、住んでいれば歩くことにも慣れそうでした。
もっとも、森の中はどこも同じに見えますから、熱帯林の中では案内者がいないと、一歩も歩けませんでしたが。
ラタンを切り出してきたプナン人 |
サラワクのラタンは、熱帯林の中の、日光が遮られた場所に生えるものが主でした。森がなくなって、これからも籠の材料は手に入るのでしょうか?
大きな川がいくつか流れていますが、先住民の中で、河口近くに住むイバン人は強くて活発な人たちです。外の世界と盛んに交易をしたり、時には航行する船を襲う海賊にもなりました。
イバンよりおとなしいカヤンは、川をさかのぼったちょっと内陸に住み、戦などはできるだけ避けて生活してきました。そして、もっとも穏やかで心優しいプナンは、深い森の中でひっそりと生きてきました。
1990年初頭まで、プナン人のほとんどは定住しない狩猟採集民で、広い森の中を、少人数の集団で移動し、仮設の小屋を建てて生活していました。野生のサゴ椰子のありかを熟知していて、大きく育つと切り倒してでんぷんを取りました。そのでんぷんを主食とし、あちこちの果樹を管理し、イノシシ、猿、蝙蝠などの動物を獲って生活してきました。
しかし、熱帯林が伐採されつくされた今、生活は激変、彼らもアブラ椰子のプランテーション労働者として巻き込まれているようです。
Wくんがいたときは、話に夢中で籠の中はちらっとしか見なかったのですが、帰った後で見ると、いろんなものが入っていました。
アフリカ同様、マレーでは、昔から財産としてのトンボ玉が欠かせません。
彼らが森の産物と交換する、おもな交易品の一つがトンボ玉でした。
とても豪華なトンボ玉です。
カヤンの踊り |
ビーズやトンボ玉とともに、サイチョウの羽もまた、彼らの正装や踊りに欠かせない、重要な意味を持っているものです。
「あらぁ、サゴのフォークだ!」
籠から覗いていたのは、ラタンでつくったサゴ椰子のでんぷんを食べるためのフォークでした。
「さすが、知っていますね」
「美味しいよねぇ、サゴ。食べたことがある?」
「はい。でも野生のサゴ椰子はほぼなくなって、栽培したものの粉を店で売ってます。プナンも、サゴよりお米の方を食べているかなぁ。あと、インスタント麺をこのフォークを使って食べています」
「うひゃぁぁ!」
茹でたサゴのでんぷんは、吉野葛をちょっと固くしたようなもの、それにフォークを突き刺して、くるくるっと丸めて口に運びます。塩味もはちみつ味も要りません。そのままで、そこはかとなくおいしくて、いくらでも食べられます。
「これ、もらってもいい?」
他人のものを欲しがる、私の悪い癖が出ます。
「いいですよ。彼ら目の前でつくってくれるのが好きだから、またつくってもらいます」
Wくんはこの夏、信州大のK先生がゼミの一年生をサラワクに連れて行くとき、お世話係として同行するのです。
そのKさんは、私たち夫婦とは旧知の中です。
「おれたちも参加して、サラワクに行ってみるか?」
と、夫が珍しく興味を示しました。
でも、熱帯林が立派だった頃を知っている私は、複雑な気持ちです。
「どうかなぁ、アブラ椰子やアカシアのプランテーションばかり、道路もバンバンできているのでしょう?なんか、見たくない気がするなぁ」
私が見たくなくても、プナン人やカヤン人は、その中で生きることを余儀なくされています。
熱帯林の中でも赤道に近い熱帯多雨林は植生の豊かさで知られていました。1平方キロメートルの中に、1300種類以上(ちなみに、イギリス全土で600種類強)の植物が生えていました。それぞれの植物やそこに棲む動物は互換関係にあり、失われると再生はほぼ無理と言われています。
雨が多い(多かった、年間6000ミリ以上)のため表土は流され、薄い表土に木は、大きな板根で立つなど、何千年何万年とかけて適応してきました。
例えば、サラワクのフタバガキ科の木(ラワン、マレーシアではメランティー)は、日本の伐採会社が植林を試みましたが、どんなに手厚く世話をしても、100本植えて、ある程度まで育つのは1本か2本、失敗に終わっています。しかも、大木になるには、何百年を要します。
伐採反対運動の世界ネットワークをつくったり、先住民の人たちが伐採道路を封鎖をしたり、その過程で殺された人もいたり、村の共有地の権利(現行法では個人所有の権利しか認められない)をめぐって裁判もしたりしましたが、すべて届かず、サラワクの熱帯林は消滅してしまいました。
大きい木が採りつくされるまで日本の企業が、そのあとは中国の企業がその伐採にかかわりました。
表題で真っ先に思い出したのが
返信削除「サラワク炭田」で石炭が取れるのですね。
私の所属していた大手炭鉱も指導者を派遣する予定で
当時単身者だった私もリストに載りましたが、、、。
昭ちゃん
返信削除それは昔の話かなぁ。サラワクには海底油田があります。資本家は本土(半島)の人ですから、サラワクの先住民たちには一銭も入りません。
サバ・サラワクの方が面積は広いのですが、経済は半島中心に回っています。そして、半島では間接統治をしにイギリスによって導入された中国人、今では医者や弁護士が多いインド人、そしてマレー人がいて、食べ物の禁忌でお互いに結婚もできずに、別々の価値観で住んでいます。さらに、先住民は辺境に宣教師が入り込んでいたせいで、ほとんどがキリスト教徒です。
なんていうか、ボルネオ島は悲しいです。ボルネオ島でも、町の人は先住民じゃありません。
姐さん
返信削除アフリカが支配国から独立しても
そんなもんでしょーか
想像できますね。
昭ちゃん
返信削除植民地政策はすごいものでしたね。分断政策が隅々までいきわたっていて、近くの人と憎み合っても、宗主国には不満がもたらされないように仕組まれています。
植民地政策の爪痕は、どこででも感じることができました。