2019年9月9日月曜日

北海道の生活道具

海の向こうに見える島は樺太(サハリン)

稚内の北方記念館の展示品は、確か、矢じりや壺など古代のものと、間宮林蔵と松田伝十郎の樺太探検の絵日誌のようなものだったと記憶しています。
写真には撮っていませんでした。


稚内を訪ねた日はよく晴れていて、樺太、抜海島(正しくは海馬島(モネロン島)でした。訂正します)、そして利尻島と礼文島もはっきり見えました。


小平町(おびらちょう)の旧花田鰊(ニシン)番屋の横に建てられた、道の駅の二階には資料室がありました。
こじんまりとはしていますが、漁労の道具、開拓の道具、炭鉱の道具、そして生活道具と、北海道の生活をよく表わした展示になっていました。
開拓の道具として、鍬やつるはしのほかに、木を伐る鋸が各種見られますが、


すでに、アメリカ製のチェーンソーも使っていたようでした。1800年代の終わりごろのことです。


冬が厳しい北海道で養蚕をしていたとは知りませんでしたが、蚕を飼っていたのでしょう、養蚕の箱や糸繰機などなど、養蚕の道具も各種ありました。


花田鰊番屋は、明治後期に資産家花田伝作によって建てられたもので、漁夫のほか、外船大工、鍛冶屋、屋根職人など総勢200人前後の人が寝泊まりしていたそうです。


花田鰊番屋の前には、もっこを担いだ女性の像があります。
ニシンが来ると、女性や子どもは木のもっこを背負って、浜に集まりました。


網は綿紐や麻紐で編んだものです。
濡れたら水をよく含んで、さぞかし重くなったことでしょう。



網はこのように張ったので、浮子も沈子も必要でした。


木の浮きが大小いろいろありました。


そしてガラス浮きもありました。
沈子(ちんす、錘)は、石を紐を編んで包んだものを使っていたようです。


漁網を編んだり繕ったりするあばりを携帯する袋はマクラメ編みで細かく編まれ、はさみなども付属させています。


あばりのいろいろ。
のらさんによると、あばりにタコ糸を十分に巻いておくのは、かつては子どもたちの仕事だったそうです。


漁に持って出ず、常備しておくあばりは引き出しにしまってあります。


カマスの上に置いて上から色を塗るステンシル。


これが建物の外の女性像が背負っていた、木のもっこです。


当時の鰊を積みだしている写真もありました。


番屋の中心部です。


囲炉裏は3つありました。


一人前の食器は、飯椀、汁椀、三平皿(なます皿)、そして天塩皿の4つ一組でした。


番屋の中の親方家族のプライベート部分の厠です。
200人もいたヤン衆たちは、いったいどんなお手洗いやお風呂を使ったのでしょうか?見逃しました。


親方家族のプライベート部分の縁側には、書院の出窓を支えているアマノジャクがいました。

鰊番屋全景



こちらは羽幌町の郷土資料館の展示品です。生活道具だけでなく、たくさんの羽幌町から出た大きなアンモナイトなどの化石を展示していました。
ついつい、あばりやはさみに目が行ってしまいます。


寒い冬の漁労に欠かせなかった手袋は、足袋のような生地で刺し子などしてつくられていました。


真ん中の巨大な水鉄砲のようなものは、船底にたまる水をポンプ形式で吸いあげて捨てたもののようでした。


普通のあか汲みもありました。


板浮き。


まだニシンのうろこの残っているもっこ。


天秤棒やかますに印をつけるステンシル。


田んぼの道具。


本州からきた竹の漏斗がありました。


台所道具の中には、桶や曲げわっぱに交じって、竹の籠がいくつかありました。
花巻民俗歴史資料館で見た展示品の中に、
「桶職人か鍛冶屋であればどこに行っても食いっぱぐれることがない」
という言葉がありましたが、今では桶屋さんも鍛冶屋さんも減ってしまって隔世の感があります。
昨日は茨城の桶屋さんに会いました。
桶屋さんは全国で50人くらい、今では絶滅危惧種だとおっしゃっていました。







8 件のコメント:

  1. アメリカ製のチェーンソー1800年代の終わりごろ、すでにそんな時代に電動工具が使われていたとは。驚きました。資料館どれも興味深いですね。うろこ付きの展示物ってなかなか見かけません。いいなあ〜。時間をかけてじっくり観たいですね。あと、質問にも答えてくれる学芸員がいてくださるといのですが、最近はどこの学芸員(博物館や美術館含む)も知識不足で物足りません。私も漁具や民具が大好きなので滋賀県立博物館の年間パスポートを買ってます。あと、三重県の海の博物館も楽しいです。愛知県には魅力的な資料館がなくて残念...。

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  2. 姐さん強い勢力のまま直撃しましたね
    停電の被害は、、、、、。
     いろいろ考えさせられる資料で現在の視線では想像できません。
    私は旭川の資料館しか知りませんが極寒の生活で生き抜いた人たちに逞しさを感じました。
    「青い目の人形」もあったので明治時代もう交流があったのですね、
    種蒔きの用具でも当時から工夫したものもあり驚きでした。(兵村記念館)
     納屋制度なので炭鉱生活と比較して少しは想像できます
    納屋頭(人繰り)用のトイレです。

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  3. hattoさん
    日本海岸沿いには各町に博物館があって、よく説明してくださる学芸員の方も多いようです。
    私の場合は、祖父上が漁師さん、花田家ほどではないけれど家が番屋で、小さいころは鰊が来て、祖母上がもっこを担いでいたのも見たのらさんという最強のガイドさんがいてくれて、すごく勉強になりました。
    番屋も面白かった、長い材木の枕で、たたき起こすにはその端をかんかんと叩いたという寝場所、200人分の飯を炊く竃などなど、やっぱり一見は百聞にしかずでした。
    ただ、当時の匂いはもう残ってはいませんでしたね(笑)。

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  4. 昭ちゃん
    そうそう、台風は我が家では、入り口にたくさん折れた枝が落ちてバリケードができたくらいしか被害はありませんでしたが、あたり一帯が日中いっぱい停電しました。台風一過気温も36度と上がりましたから、クーラーに頼っている方たちは暑かったと思います。

    昭ちゃんも種まき道具を見たのですか?
    私もいろいろなところで結構大掛かりな種まき道具を見て、正直「こんなものをつくる前に手で蒔いた方が楽じゃないか?」と思いましたが、本州の狭いところから移住して広い場所を見た人たちは途方に暮れたのでしょうね(笑)。
    炭鉱跡にはいきませんでしたが、カンテラ、つるはしなどの道具や写真は見ました。また、ドライブ中、雨竜ではかつてのぼた山に木が生えているのを見ました。海では石炭を拾いました。

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    1. ぼた山に木が生えていたのは赤平ですね。数年前までは選炭場(?)などの建物の一部が国道沿いに残っていたのですが、もう見られなくなっています。

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  5. 春さんの大好きなものばかりですね!写真選ぶの大変でしょう?

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  6. hiyocoさん
    そうなんです。好きなものだらけでした。
    前に、あか汲みだと思っていたものが、花巻の民族歴史資料館で湯すくいとわかったので、あか汲みを見たのは初めて(小さいころ意識なく見たことはあったかもしれないけれど)、興奮しました(笑)。でも、のらさんは小さいころよく見ていたのですって。漁村で育ちたかったなぁ(笑)。ちなみに祖母は漁村の出でした。
    写真を撮るだけじゃなくて、いろいろ触ってみましたよ(^^♪場所によっては「展示物に手を触れないでください」と書いてあったところもありましたが、そんなところでは民具に触るのは遠慮しましたが、シベリアオオカミやクマのはく製はなでなでしてしまいました(笑)。

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  7. のらさん
    失礼しました。赤平でしたか。記憶がもうごちゃ混ぜになってしまっています。
    私は1980年ごろ、福岡県田川でボタ山を見ました。あのボタ山にももう木が生えているかもしれませんね。

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