2021年9月19日日曜日

アフガニスタンレポート

アフガニスタンで何が起こっているか、日本にいてはほとんど知る機会がありません。 そんな中、もと日本国際ボランティアセンター(JVC)代表で、2002年から2006年までアフガニスタンに駐在した谷山博史さんが、アフガニスタンで見たこと、経験したことを、Facebookに書き始めていて、共有することは大切なことではないかと思い、転載させていただくことにしました。 以下、谷山さんのアフガニスタンレポート(1)です。 ☆☆☆☆☆ アフガニスタンがにわかに脚光を浴びるようになりました。私が現場にいたのは2002年の7月から2006年の10月。その後は東京でJVCの責任者として、ずっとアフガニスタンを見てきました。が、やはり、実感としてアフガニスタンの社会や政治の機微を感じられたのは現場にいたときです。2002年から2006年は転げ落ちるように治安が悪化した時期でした。対テロ戦争の勝利が喧伝されていたアフガニスタンで何が起こっていたのか。もうだいぶ前の話ですが、当時のことを現場証人として書いておくことは、これからのアフガニスタンにどう向き合うのかを考えるうえで意味があると思うようになりました。 何回かにわけて共有したいと思います。時間がある時にでも読んでみてください。
2002年の風景
私は2002年の7月に、JVCの事務局長の職を辞してアフガニスタン代表としてジャララバードに赴任しました。ジャララバードはナンガルハル県の県都であると同時に東部の中心都市です。パキスタンの首都イスラマバードから西へ300キロ、アフガニスタンとパキスタンとの国境の有名なカイバル峠を越えて陸路で移動します。 私がアフガニスタンに駐在していた2006年10月までは、アフガニスタンに入るにはいつもこの陸路のルートを使っていましたが、その後治安が悪化したために陸路でのアフガン入りはできなくなりました。
駐在した当初は今から考えると別世界のようでした。ジャララバードの町を一人で歩き回ることもできれば、当時行なっていた巡回診療活動で、村々を巡回するのにもなんら危険を感じることはありませんでした。その頃一緒に活動していた看護師の上住純子さんも、日ごろのストレス解消のためにバザールでの買い物を楽しんでいました。さすがに保守的な地方都市では外国人の女性が一人で行動すると衆目を集めるので、スタッフの男性が同行していましたが、現地の女性と同じ服装をし、男性に馴れ馴れしく接しなければ安全だったのです。
私たちも狙われている
状況が変わり始めたのは2003年に入ってからです。このころイラクに対するアメリカの攻撃が日程にのぼっていました。アフガニスタンに続いて同じイスラムの国にアメリカが攻撃をするということが、世界中のイスラム諸国で反米感情を刺激していました。 2003年の1月、アフガニスタンではタリバーンやアル・カイーダ、さらに反米急進イスラム勢力のヘクマチュアルがこうした世論を背景にアメリカに対する聖戦を表明しました。それらの声明にはアメリカのみならず、アフガニスタン政府、国連に加えてNGOや外国人一般に対しても攻撃を加えると明言されていました。
タリバーンが最後の拠点カンダハールを失って1年たっていましたが、戦闘能力を徐々に回復していたのです。この時から年を追うにしたがって治安は悪化していきました。それにしてもNGOが反米・反政府武装勢力の明確な攻撃対象になるというのは私には衝撃でした。 その10年前、和平合意の直後のカンボジアで活動していたときは、NGOは中立とみなされていたために安全を守る方法は、NGOであることをアピールすることでした。車両で移動するときは政府や軍の車両と間違えられないように白地にNGOのロゴを記した旗を掲げて移動するのが常でした。しかしアフガニスタンではNGOは武装勢力には中立とはみなされません。したがってNGOであることも、外国人であることも隠すように隠密の行動をとるしかなかったのです。
悪化する治安
2003年以降、アフガニスタンの治安は悪化の一途をたどっています。アフガニスタン政府軍や駐留する外国軍との戦闘あるいは反政府武装勢力の襲撃による犠牲者の数は2004年850人、2005年1,400人であったのが、2006年には4,000人、2007年には80,000人に達しました。 南部の諸県の治安が特に悪く、カンダハール県では2006年に入って9月の時点で40件の自爆襲撃があり、100人以上の人が亡くなっています。襲撃は外国軍人とアフガン政府関係者のみならず、NGOや外国人一般にも向けられていました。
南部ヘルマンド県では、2005年11月から2006年3月にかけての4ヶ月に50人もの郡部の政府職員が暗殺され、県中心部を除く郡部の行政は麻痺に近い状態になってしまいました。ヘルマンド県は2005年末からアメリカ軍を引き継いで、英国軍が4,000人あまりの兵力を用いてテロ掃討と行政建て直しミッション始めましたが、形勢は悪くなる一方でした。同じく南部のザブール県でも政府は郡部を掌握できていません。この傾向は南東部にも派生し、ガズニ県などの諸県ではタリバーンが数郡の支配権を掌握していました。
点から面へ
2006年夏、NATOの現地司令官はタリバーンは予想したよりはるかに強いと言い、現在のNATO兵力18,500人に加えて2,500人の増派が必要だとしました。しかし兵力を増強すればテロ掃討作戦が成功するというものではありません。2006年9月11日のAPP配信に、ヘルマンド県での作戦に従事していた英軍大尉が辞職の際に行った作戦に対する批判が載っています。 「家を壊され、息子を殺された人々はすべてイギリス軍の敵になってしまっている」 と。 英軍が南部に展開した当初は、政府の掌握できないヘルマンド県の北部を囲いこめばよかったのに、住民を敵に回したために、全県で反英活動に対応しなければならなくなったとも言っています。さらに、 「村々を空爆したり、機銃掃射する米軍とは違う方法を取るはずだったのが、米軍と同じになった」 とも。
想像してみてください。その当時行われていたアフガニスタンでの対テロ戦争はタリバーンを追い出した直後の状況とは一変しています。米軍やアフガン軍閥の協力者がタリバーンの残党を見つけると戦闘機による空爆と歩兵による追撃で蹴散らすというような生易しいものではありません。タリバーンと米軍や英国を初めとする他の連合軍の部隊が郡部の支配権をめぐって前面衝突する白兵戦なのです。まさに戦闘は点から面へと拡大しました。BBCの放送で貴重な映像を見ました。銃声や爆音のとどろく中、英兵が怯えた表情でこうつぶやいていました。 「俺たちはどこにいてもタリバーンに見られている」 と。
パンジュワイの悲劇
2006年9月、カンダルハル県のパンジュワイ郡で米英連合軍とアフガン国軍20,000人を投入した大規模なタリバーン制圧作戦が行われました。郡全体を囲い込んで一気に殲滅しようとしたのです。この戦闘で100人以上の村人が犠牲になり、7,000人から10,000人が避難民になったと言われています。このとき連合軍は住民に退避するように警告を発したといいますが、アフガン赤新月社(イスラムの国々での赤十字のような組織)の現地スタッフは、あまりに警告を発するのが遅すぎたと言っています。
この事件の1ヶ月後、ナンガルハル県ホギャニ郡がもめていました。ホギャニ郡の郡長と警察署長が学校放火事件の現場に視察に訪れた際に、仕掛け爆弾で殺されたばかりでした。 タリバーンが浸透し始めていたとも言われてもいました。県知事のグル・アガ・シェルザイは郡の長老を集めて警告を発したのです。 「もし郡の治安が良くならなければパンジュワイでやったと同じ作戦をするぞ」 と。 これがホギャニの人々の気持ちを激昂させました。特に若者の憤慨は激しいものでした。もしホギャニでパンジュワイのようなことが行われればナンガルハル県一帯で反米・反政府活動に火がつくのではないか。私はそのことを恐れていました。今でもその気持ちに変わりはありません。
嫌われるアメリカ軍
私の周りにいるアフガン人の米軍に対する反応に変化がみられるようになったのは2003年に入ってからでした。それまでアメリカをよく言う人はいなくとも、表立って非難する人は多くありませんでした。アメリカは嫌いでもアメリカ主導の復興にはやはり期待を持つ人が多かったとも言えます。 しかし、時がたつにつれて復興も進まなければ治安もよくならないことへの苛立ちに加えて、罪のない一般の人々への誤爆が後を絶たない上、米軍の「テロリストの捜索」の仕方がアフガン人の誇りを傷つける無思慮なものであるために反発を露わにすることが多くなったのです。
2002年9月、コースト県で起こったアフガン女性による米兵射殺事件は一つの象徴的な事件です。アル・カイーダとタリバーンの捜索のためにコースト近郊の村を回っていた米兵が男性不在の家に侵入し、女性のベールを一人一人めくって顔を改めていたとき、若い女性が銃で米兵を2人撃ち殺しました。パシュトゥーン人にとって、家主の同意なしに家に入り込むというのは許しがたい侮辱行為です。加えてこの場合女性だけの家に侵入し、顔を隠そうとする女性のベールを力ずくではがしたのです。外部の男に女性が顔を曝すことは恥辱とみなされているのです。この女性のしたことを非難するアフガン人は、パシュトゥーン人に限らず多くはないでしょう。逆にこのような事件があるたびに米軍に対する反発は深くアフガン人の心に刻印されました。
いかなる法にも従わない米軍
一方タリバーンやアル・カイーダの一味という理由で逮捕、連行された者は後をたちません。彼らは逮捕の根拠も告げられなければ、家族との面会もできず、裁判を受けることもできません。ガンタナモやバグラムの米軍基地に収容されているアフガン囚人の扱いは前時代的野蛮の極致です。一日中手錠や足枷でつながれ、頭陀袋をかぶせられ、毎日拷問のような取調べがあります。つまり囚人にも保障されるべき人間として最低限の人権も保障されていないのです。
ブッシュ大統領が「対テロ戦争」という国際法に規定のない戦争を始めてから、世界の常識は一転してしまいました。テロリスト相手の戦争は国際法でいう戦争ではないのだから先制攻撃も許される。テロリストの囚人は戦争の囚人ではないので人道的な配慮は必要ない。さらにテロリスト容疑者は刑法でいう犯罪容疑者ではないので刑事訴訟法の手続きはなしに収監できる。アフガニスタンでの米軍は「対テロ戦争」という超法規的な戦争の性格を日常の行為においても演じ続けていました。
「母親がアメリカ兵に撃たれた」
2005年4月のある日の深夜、JVCのアフガン人スタッフのハヤトラから突然電話がありました。電話口のハヤトラは明らかに動揺していました。それもそのはずです。彼の母親が乗り合いタクシーで移動中米軍に撃たれ、どこかに連れて行かれたからです。これは大変なことになったと思いました。もし母親が死んでいたらハヤトラの一族は黙ってはいないでしょう。
母親はナンガルハル県南西部ホギャニ郡のザワ村の家から、親戚のいるワジール村に孫と一緒にワゴンタイプの乗り合いタクシーで移動していました。民家が疎らに点在するだけの砂漠の一本道のようなところです。前方に米軍の駐屯所が見えるあたりで、少し離れたところで爆発音のような音が聞こえました。その直後前方の駐屯所と後方に迫ってきていた軍用ジープからタクシーめがけて撃ってきたのです。 ハヤトラの母と男の乗客2人が重症を追いました。米兵はタクシーにまで乗り込んできて撃とうとしましたが、女性がいることに気づき誤って民間人を撃ってしまったことを知りました。慌てて負傷者を収容し、ヘリコプターでバグラムの米軍基地内の病院に運びました。しかし、母親が病院に連れて行かれたと家族が知ったのはだいぶ後になってからで、その時点ではどこかへ連れ去られたとしか考えられなかったのです。 「もう死んでいるかもしれない」 この話を聞いて私は、私の知っている限りの知人のネットワークを使って母親の安否を知ろうとしました。そのネットワークには軍の人道援助の問題で交渉していたカブールの連合軍の調整官やナンガルハル県駐在の米軍の軍人も含まれていました。翌日の昼にはザワ村からハヤトラの父親が事務所を訪ねてきました。ザワの村長をしていたことのある人で、風格のある典型的なパシュトゥーンの長老といった風貌をしています。彼が語った言葉がとても印象に残っています。 「妻はもう死んでいるかもしれない。それは仕方がない。人はいつかは死ぬものだ。しかし米軍がなぜ妻を撃ったのかそれだけは知りたい」 彼が帰って1時間もしないうちにUNAMAジャララバード事務所のヘラン・ソングから第一報が入りました。ハヤトラの母は他の2人負傷者と一緒にバグラム基地の病院にいるということ、3人とも命に別状はないとのことでした。それから1週間の間にこの事件のレポートをNGO関係者に回したり、ジャララバードのアフガニスタン独立人権委員会を訪ねこの事件の調査を米軍に働きかけるように依頼したりしました。人権委員会の所長は私たちの話を聞いて同情を示しましたが、ポツンとこう言いました。 「米軍は何を言っても聞かない」
米軍との交渉
5月のある日、私は内務省の会議室で開かれた連合軍とNGOの会議の席上にいました。この会議の主要テーマは連合軍による人道援助の問題点についてでしたが、事前にホギャニでの誤射事件も議題に上げてもらっていました。私はこの事件の調査と謝罪、補償を求め、同時に他の誤射・誤爆事件も含めた犠牲者に対する補償のガイドラインを示すように要求しました。会議で司会を務めた英軍のサイモン・オーエン中佐の発言は注目に値します。彼はこういったのです。 「このような事件は日常茶飯事だからなあ、いちいち調査をしている余裕はない」 そうです、対テロ戦争に犠牲はつきものなのです。対テロ戦争の崇高な目的の前には無実の民間人が何人死のうと連合軍は責任を負う必要はないのです。犠牲者や犠牲者の家族には説明も謝罪も補償もなければ、そうした正当な権利を訴えるすべもないのです。だとすればかれらにどのような手段が残されているでしょうか。ハヤトラの弟はバグラムの病院でずっと母に付き添っていました。面会がかなうまでには相当不愉快な目にもあったようです。あるとき連合軍との会議の報告を受けた彼は、 「テロでもなんでもやってやる」 と叫びました。もちろん母親は命をとりとめ回復したのでそんなことはありませんでしたが、それをきいて私は想像しました。この国の何千、何万という人が同じようなことを口にしているのだと。どれだけの若者たちがこうした怒りに突き動かされてタリバーンに参加していったかと。
☆☆☆☆☆ レポートの中に乗り合いタクシーが出てきます。 アフガニスタンに行ったことがない私ですが、たぶんパレスチナの乗り合いタクシーと同じようなものと思い、ちょっと補足説明します。
乗り合いタクシーにはワゴンタイプの長い乗用車を使っていて、運転手を除いて8人(10人?)乗れます。大きな町に乗り場があって、各方面に向けて出ているのですが、座席がいっぱいになると出発します。発車するとお金を払いますが、3列(4列?)あるので、前の人にお金を託します。お互いにおつりをつくり合ったりしてお金は運転手さんに、肩越しに届けられます。
途中、降りたいときは、コインなどで車体を「コツコツ」と叩くと停まってくれます。 大きな町から町までは問題ないのですが、目的地に近い途中の村で降りたりすると帰り道、どの乗り合いタクシーも乗せたばかりの客で満員で、乗れないことがあります。そんなときは、長い道を歩くことになります。





 

14 件のコメント:

  1. 私などはせいぜい日本の限られた情報のみで判断していますが
    昔道関係だったので中立国経路で入る戦局に驚いたことがあります。
    世界的視野でいろいろな問題を観る人は凄いな。

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  2. 昭ちゃん
    コメントありがとう!
    日本には限られた情報しか入ってこない仕組みになっているので、現場に立ち会った人のレポートは貴重です。
    もう第二段が報告されていて、タリバーンといってもいろいろなタリバーンがいることが報告されているので、また転載しますね。
    例えば、パレスチナのハマスと言えば、いつも「ガザを実行支配している武装勢力ハマス」と紹介されます。ところがハマスの大半は普通の人です。集会には女子供もいっぱい、学校も経営していれば社会福祉も手厚く行っている、とてもまじめで優しい人がほとんどなのです。伝わってきませんよね。

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  3.  思い出すなー
    情報は流しても記事には書けない鉄則が「オフレコ」と呼びます。

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  4. 昭ちゃん
    マスコミは人々が飛びつく情報しか流しません。

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  5. 昔もいまも見出しが勝負です。

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  6. 昭ちゃん
    そうですね。昔はぎりぎりだったから、まだ本当に必要なニュースを潜り込ませることもできたけど今は無理。
    それに一般のネットニュースの中から必要なニュースを取り出すのも難しいです。

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  7. 秋晴れに包まれ、過ごしやすい季節になった日本にいて、
    この投稿を拝見して、同じ地球上で起こっていることとは思えない・・・というのが率直な感想です。
    そして、このような事態に我が身の危険を顧みず、活動されているNGOの皆様に頭が下がるばかりです。
    今日本のメディアは総裁選一色ですが、政治に関心を持つのは悪いことではないと思いますが、
    50歩100歩な気がしてきました。その差の50歩も意味はあると思ってはいますが。
    いつも広い視点を与えてくださって、ありがとうございます。

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  8. 昭ちゃんアダルト2021年9月20日 8:59

    戦後日本人の視野で毛さんの東征を判断し
    半端じゃない行動にぶったまげました。

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  9. akemifさん
    今日は軽い記事をと思いながら、アフガンレポートを続けてしまいました(笑)。
    イエメンのこともビルマのことも、現地からの声を聞きたいところですが、聞こえません。そんなおり、アフガニスタンはどうしてこんなことになっているのか、身近に最善のレポートがあったので、考える人が一人でも多くなればと思って転載させていただいています。

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  10. 昭ちゃん
    また、毛主席のところに行く?(笑)
    長征の経験の上に主席になった毛さんと、権力の取り合いだけで主席になった習さん、見ている理想は違うでしょうね。

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  11.  春さんとこが近ければマッコリをもっていきたいなー

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  12. 昭ちゃん
    遠いね(笑)。

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  13.  20年以上前は毎年同窓会で上京五日市や千葉
    葛袋のダンプ街道と調査に足をのばしていました。
    都内ではディスコ見学まで。

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  14. 昭ちゃん
    いろいろやりましたね。

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