広島県廿日市市の張り子の鯛車です。
廿日市張り子は、お面を別にすると赤ものが多く、その赤はちょっと黒みがかった赤です。
ブログ「「はつかいち」ぶらり」からお借りしました |
廿日市張り子は、元禄のころ大津から移住した大津屋清右衛門によって創始され、二代目の清蔵が伏見で人形を習って、さらに独特の意匠を加え、今日に至ったものと伝えられています。
おぼこ人形、獅子頭、鯛車のほかに、おかめひょっとこ、天狗、狐など、いろいろなお面があります。
これは七代目の大島都美子さんのつくったもので、台座の長さが25センチあります。
廿日市張り子は、薄い大竹産の手漉き和紙を何枚も張り重ねてつくる、手間のかかるものです。
広島ではよい和紙が生産されていたのか、廿日市張り子のほか、広島張り子、常石張り子などがあります。
左から、鹿児島神宮の木の鯛車、広島廿日市の張り子の鯛車、新潟三条の竹ひごに紙を張った鯛車、そして手前は埼玉県鴻巣の練りものの鯛車、いろいろな地域でいろいろな素材と方法で鯛車がつくられましたが、どれも子どもの健やかな成長や病気平癒を願ったものでした。
広島の張り子のことを書いていて、ふと、小さいころの秋祭りの鬼の面のことを思い出しました。
私の育った岡山県倉敷市の片田舎では、10月13日の秋祭りの日、あちこちに鬼が出ました。家にこもっていれば怖くないのですが、怖いもの見たさに外に出ては、鬼に追いかけられて必死で逃げたものでした。鬼は、長い髪のついた面をかぶり、赤鬼、青鬼などの衣装を着て、棍棒を持って歩き回り、子どもを見かけると追いかけました。
何歳ごろだったか、追いかけられて肝をつぶしていたら鬼がお面を外し、それが同級生で、ほかの鬼を見かけたかどうか訊かれて、びっくりしたことがありました。鬼になっていたのは、小学校高学年から二十歳前くらいまでの男性だったのでしょう。
近くの茶屋町にはまだ鬼祭りが残っている。私の村の鬼もこんな鬼でした。 |
あの鬼も、今考えると広義のお面でした。当時、男の子のいる家にはお面や衣装一式があって、それをつけていたとすると、お面はいったいどこでつくられたものか、どこで買ったものか、これまで一度も考えたことがありませんでしたが、近くの張り子製作者がつくっていたのかもしれません。
ちなみに、学生時代に何度か郷土玩具を訪ねる旅に一緒に出掛けたさっちゃんとやすこさんと、京都を訪ねたあと、倉敷に足を延ばして祖母の家に泊まったことがありました。倉敷の民藝館を訪ねるのが目的だったのですが、さっちゃんが「倉敷張り子の制作者を訪ねたい」というのでついて行ったら、なんとかつて訪ねたこともある同級生の家で、びっくりした私はなぜか双方にそのことを話さず、まったく知らんぷりをして、通してしまいました。
すいんきょ面 |
当時、倉敷には倉敷張り子があり、阿智神社の「すいんきょ祭り」のすいんきょ面も倉敷張り子の制作者がつくっていることは知ってはいましたが、それをつくっているのがまさか友人の家だったなんて、まったく知りませんでした。
私が小さいころ肝をつぶしていた鬼の面も、もしかしたらその友人宅でつくられていたのかもしれません。
例の3人旅ですね!気が付いているけど気が付かない振りすること、よくありますよね(笑)。最初にタイミングを逃すと、もう言い出すチャンスなくそのまま。。。「なんだ、知り合いなの!」と連れのお友達にグイグイ来られても面倒だったんでしょうかね(笑)。でもすごい偶然でですね!
返信削除hiyocoさん
返信削除例の3人組です。知っている家だなんて気配も感じさせませんでした(笑)。
小学校は違って、中学生になって出会ったのに私が転校してから、まったく交流のなかったその昔の友だち。訪ねた時ばったり会わなくてよかったです(笑)。
それより、さっちゃんは横浜の波止場から船に乗ってヨーロッパに行ったきり、消息が知れません。ネットのある時代とはいえ、「佐藤」のさっちゃん、下の名前は忘れてしまって検索もできません(涙)。