2023年2月8日水曜日

『同潤会代官山アパートメント』

コロナで臥せっていたとき、他に何もすることがないので、長すぎもせず、かといって短すぎてすぐ読み終わってしまうのではない本を読もうと、ローズマリ・サトクリフのブリテン・ローマシリーズを読み返していました。
でも年のせいか、流行り病で身体と心が弱っていたせいか、殺し合いや焼き打ち、略奪などの場面がちょっと重く感じて、最後の『辺境のオオカミ』の恐ろしい部分は読み飛ばしてしまい、全部を読むことができませんでした。
もっと淡々とした静かな本が読みたいと思い、そういえば三上延は、『ビブリア古書堂の事件手帖』以外にどんな本を書いているのかと検索してみました。


すると、『同潤会代官山アパートメント』(新潮文庫、2022年)という本が目につきました。
表紙絵もいい感じ、早速注文しました。

代官山には一度も行ったことがないので、代官山の同潤会アパートは目にしたことがないのですが、同潤会のほかの場所に建っていたアパートは見たことがありました。
同潤会とは、1923年の関東大震災の復興支援のために設立された団体で、東京と横浜の各地に鉄筋コンクリート構造の集合住宅を建設しました。電気、水道、水洗便所など、当時としては先進的な設計や装備がなされていました。


地下鉄茗荷谷駅のあたりにあった「大塚女子アパート」は、高校生のとき、毎日その前を通って通学していたので知っていました。
もっとも、当時は同潤会アパートとは知りませんでしたが。


表参道にあった青山アパートは、夫の事務所が原宿にあったことから、同潤会アパートの中ではもっとも馴染みのものでした。
1960年代まで、原宿は寂れた街でしたが、急に賑やかになったのは1970年代だったでしょうか?
前を通るだけでなく、夫の友人のYさん家族がこのアパートで暮らしていたので、中に入ったこともありました。Yさんは建築家でしたから、とても素敵にリフォームして暮らしていました。青山アパートの1階におしゃれな店が次々と開店したのは、それから間もなくでした。


上野下アパートは、職場の近くにありました。
「ここにも同潤会アパートがあったんだ!」
と、1990年代になって出逢ったときは、何だかしみじみしたものでした。
どの同潤会アパートも老朽化が進み、しかしその時代性から保存運動もありましたが、今ではすべて取り壊されて、再開発されてしまいました。

同潤会アパートほどおしゃれではありませんでしたが、私も子どものころから結婚するまで、品川区の丘の上にあった鉄筋コンクリート4階建ての社宅の3階で暮らしました。
6畳、8畳、4畳半に台所で、同潤会の代官山アパートが建てられてから約30年経ってから建てられた社宅には、お風呂もついていました。そのお風呂というのは、ヒノキでできた楕円形の桶で、タイル張りの風呂場に置いてありました。そのままでは縁が高くてまたげない。風呂桶の手前に木の椅子を置いて、それを踏み台にしてお風呂に入っていました。タイルの洗い場にはすのこを置くのが普通、お風呂掃除は大変だったと思います。
台所に置いてあったのは、2台のいわゆるアサガオ形のガスコンロでした。まだアルミサッシはなくて、窓ガラスは頑丈な鉄サッシでした。
社宅は狭いものでしたが、当時は6畳一間に家族4人で間借りしている友人も珍しくなく、恵まれていたと言えるかもしれません。

三上延さんの『同潤会代官山アパートメント』は、アパートが建設された1927年から約10年毎に章立てして物語が展開し、解体された次の年の1997年まで、代官山アパートに住んだ、家族4世代が描かれていました。




 

4 件のコメント:

  1. 「流行り病」頂きです。コロナが粋なものになりました。


    同潤会アパートのどれも懐かしいです。同潤会の集合住宅としては最後に取り壊されたのが上野のアパートでした(戸建ては未だ残っているものが在ります)。10人程で見学に行った時の事、特に許可を得てはいなかったので、敷地内をウロウロしていた私達は怪しまれ、パトカーが近くを巡回し始めました。そそくさと退散しましたが、住人の方達には迷惑だったのでしょう。

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  2. reiさん
    見ると、何だか懐かしさを感じたアパートでしたね。でも昔はそんな建物がごろごろしていたから、別段大きな感慨もありませんでしたが(笑)。
    代官山アパートにはダスターシュートがついていたとか、私が住んでいた社宅にも着いていましたが、すぐに機能しなくなりました。あの頃から家庭ごみが飛躍的に増えたのかもしれません。

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  3. 代官山の同潤会アパートにフランスのカジュアルなアパレルを扱うお店が入っていて、時々行っていたので懐かしいです。大学生の頃は、東横線に乗っても代官山は急行がとまらないので未知のエリアでした(笑)。

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  4. hiyocoさん
    同じく、いつも先を急いでいたので急行しか乗らなくて、代官山はパスでした(笑)。
    それに私が小さかったころは、東京もどこも暗かったです。山手線の回りも、だだっ広い空き地みたいなところが多かったし。山手線が有楽町を通るときだけ、銀座4丁目の森永製菓地球ネオン塔が見えて明るかった。夜の電車はわびしいものでした(笑)。

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