一昨日は3月に亡くなった夫の兄の納骨があり、兄の弟たち、子どもたち、そして孫たちが集まりました。
納骨が終わって会食しているとき、兄の子ども時代のアルバムを見せてもらいました。夫が持っているアルバムと、大きさも厚みもそっくりのものでした。ところが、中を開けてみると感じが違います。どの写真にも、白いインクで余白がなくなるほど、長くて丁寧な説明文が書かれています。
夫の両親は明治生まれでしたが、当時の一般的な両親とはずいぶん違って、子どもの自主性を最大限尊重して、子どもに干渉など一切しない、むしろ自分たちの生活を大切にしている人たちでした。その、子どもに対してはクールにも感じられる人たちが、第一子である兄のアルバムに注いでいる愛情には、ちょっとびっくりさせられて、
「へぇぇ、第一子にはやっぱり親の熱量は違いますね」
と、つい口にしてしまいました。
すると、第三子である夫の弟が言いました。
「おれなんか、生まれたとき届け出をされなくて、1年経ってから出生届を出されたんだけど、生まれた日を忘れたとかで、福沢諭吉の誕生日に生まれたってことにされてしまったよ」
親がすっかり子ども慣れしてしまったのでしょう。
写真を撮る回数や、アルバムのつくり方が子どもの生まれた順番でまったく違ってしまうのは誰しも経験すること、だからといって、親の愛に偏りはないのです。
家に帰ってから、夫のアルバムを見返してみました。
書き込みは最小限です。そしてよく見ると時系列になっていません。ためておいた写真を片っ端から貼って、年齢を思い出して書き込んでおいたという感じでしょうか。かえって両親(たぶん父)に親しみを感じてしまいます。
子ども別のアルバムはいいものですが、私の育った家には家族全体のアルバムしかありませんでしたし、私も子ども別のアルバムをつくりませんでした。
0 件のコメント:
コメントを投稿