2024年5月4日土曜日

母の写真


5年前に、家族だけで母のお葬式をしたとき、妹が会場に飾っていた母の写真の中の
1枚です。
10歳くらいでしょうか、近所に住む画家さんに頼まれて絵のモデルになったとか、その写真を見たのは久しぶりでした。画家さんの絵より、写真館の背景の写真が目を引きます。日本の木だとしたら、ジャケツイバラでしょうか?
写真の右下に宇野の印刻があります。母は岡山県児島郡宇野で生まれ、幼少期を宇野で過ごし、のちに岡山市内に越しています。


もっと小さいときの写真、母は10月生まれなので、1歳半のひな祭りでしょうか。右は一つ違いの兄さんです。
母は父の妹と同年生まれなので、叔母から譲り受けた私のお雛さまと、母のお雛さまは同世代かもしれません。あるいは、これは母の母のお雛さまだったのか、母の実家には、小さいころよく遊びに行きましたが、写真に写っているお雛さまや市松人形を私は見たこともないし、話にも聞いたことがありません。
父母の年代は戦争をはさんでいるからか、あるいは誰でもそんなものか、父母の子ども時代についての話を、本人たちから聞いたことはほとんどありませんでした。
この写真には、天井からのつるし雛が写っています。
岡山にはつるし雛の風習があったとは思えません。私は小さいころつるし雛を見たこともなかったし、存在を知ったのは、家庭で段飾りが飾られないようになり、各地でイベント的に飾られるようになった近年のことでした。


つるし雛が伝統的につくられていた地域は限られていて、山形県、静岡県、福岡県の3カ所、それらの地域では、江戸時代からつくられていたそうです。
何故、母がなじみのない(近年、盛んに紹介されるようになっていたけれど)つるし雛をつくっていたのか、不思議に思っていましたが、この写真を見ると、母の幼いときにつるし雛とのかかわりがあったようです。
大正期に港町であった宇野につるし雛がもたらされたのはどこからだったのでしょう?
静岡県伊豆の稲取の「雛のつるし飾り」からでしょうか?
それとも、福岡県柳川の「さげもん」からでしょうか?
どちらの可能性もあります。

余談ですが、瀬戸内の児島郡呼松の港町の生まれの祖母はときおり、焼いた魚をほぐして味噌とすり鉢ですり、そのすり鉢を七輪の上で焼いて熱い出汁でゆるくしてご飯にかけて食べる「薩摩めし」をつくってくれて、それは私の大好物でした。周りの家では誰も「薩摩めし」を食べてなかったので、漁港にあった祖母の生家(船問屋)の誰かが鹿児島かどこか九州との交易によって、「冷や汁」を持ち帰り、それをアレンジしたものが、祖母の生家の定番となっていたのでしょう。港町とは面白いものです。

さて、母は、吊るし雛をつくっていましたが、欲張って型紙を倍にして大きいものをつくろうとして、そのかわいらしくなさに自分で辟易して続けられなかった形跡があり、身辺整理をしたときに処分して欲しいものの中に、つくりかけでたくさん入っていました。
確かにつるし雛は、小さければ小さいほどかわいらしいと思われます。





 

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