2024年10月28日月曜日

鯛担ぎ


宮城県仙台市の堤人形の鯛担ぎです。
堤人形は、藩主伊達綱村公(1659-1719年)が江戸の陶工を招いて窯を築き、玉手崎天神の神像を焼かせたのがはじめと伝えられ、文政年間(1818-1829年)に最盛期を迎えました。明治維新をはじめとして何度も廃絶の危機にさらされながら、今日も、「芳賀堤人形製造所」と「つつみのおひなっこや」が製作を続けています。


鯛は「めでたい」に重ねて、赤いので病気避け、疱瘡除けにも珍重されたものと思われます。私も体内に残っている麻疹の菌が頭を持ち上げて暴れ出した帯状疱疹からの平癒を、鯛担ぎに祈っているところです。


童子の背中に何か書いてありますが、読めません。

郷土玩具の部屋 さかな・魚・肴???より、お借りしました

ネットで見つけた、堤人形の鯛担ぎです。
左は昭和初期のもの、右は現代(っていつごろ?)のものとの説明があります。どちらも首を向かって左に傾げていて、私の手に入れた鯛担ぎと頭の向きが違います。


『日本の郷土玩具』(写真・園部澄、解説・坂本一也、毎日新聞社、1972年)に載っている写真は一つ上の写真の右の鯛担ぎとよく似ています。この本には作者名が出ていて、芳賀佐五郎さんのつくられたものだそうです。とすると、一つ上の写真の右の鯛担ぎは、色や模様の細かさから、(現代のものなら)現当主で佐五郎さんの息子さんの芳賀強さんがつくられたものかもしれません。


『日本郷土玩具辞典』(西沢笛畝著、岩崎美術社、1964年)に載っている鯛担ぎも、芳賀佐五郎さんの鯛担ぎと雰囲気は似ていますが、作者の記載はありませんでした。


あれれっ、これは!
佐藤吉夫さん作の鯛担ぎが見つかりましたが、型が芳賀佐五郎さんの型とそっくりです。佐藤家では、大正時代の吉夫さんのお父さんの代に、堤町の旧家であった宇津井家の型を「おひなっこ」という屋号とともにそっくり引き継いだとのこと、ということは、この型ももとは宇津井家の型だったのでしょうか?
佐藤吉夫さんは13歳のころから人形作りに携わった多才な方で、松川達磨の作者としても活躍されました。

芳賀家でも佐藤家でも首を向かって左に傾げて、ちょっとふくよかな鯛担ぎをつくってこられたということは、首を向かって右に傾げた鯛担ぎは、芳賀家の作でも佐藤家の作でもないのかもしれません。
芳賀家でもない、佐藤家でもないとすると、どんな窯元でつくられたのでしょう?
東北歴史博物館の研究資料によると、佐藤吉夫さんからの聞き書きとして、昭和初期には、堤町、台原には、登り窯と一つ窯を合わせて62基もの窯や窯跡があったそうです。



この素朴な型の鯛担ぎも、頭を向かって左に傾けています。これはネットショップで売られたもので、江戸時代につくられたと書いてありました。
赤い絵の具は古そうですが江戸時代かどうか、どうでしょう?

メルカリより

やっと同じ方向に首を傾けた鯛担ぎを見つけました。私の鯛担ぎと似ていますが、型が同じかどうかまではわかりません。このくらい素朴なつくりの方に惹かれます。


堤人形の型はバラエティーに富んでいて、数百種に及んでいます。
雛節句に贈ったり飾られたりする人形のほか、便所の汚れを清めるために置く男女人形(厠の神さま)、子授け人形(芥子人形)、亡くなった幼児の棺桶に入れる友引人形などなど、1960年代まで、土地の信仰に結びついたものが数多くつくられていました。





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