2011年4月3日日曜日
大原の腰掛け
遠い昔、学生のころ、休暇になるとアルバイトをして貯めたお金で、友人たちと旅に出るのが楽しみでした。
春休みに、いつも一緒に旅に出かけていた友人二人と、京都を訪ねたときのことです。大原の寂光院や三千院にまで足を伸ばした帰り道、ふと立ち寄った農家で、稲わらの腰掛けを見つけました。
稲わらで、幅が細いマット状のものを編み、それをくるくる巻いて、縄で縛ってつくってあります。持ち運びしやすいよう、持ち手もついています。
売り物ではなくて、自分の家で使うためにつくっているものでしたが、ねだって譲っていただきました。
当時は宅配便もないので、重くてかさばるものを手に入れても、その先、持って歩く以外ありませんでした。私はいつも、宝物に押しつぶされそうになり、肩も手も痛くて、たいへんでしたが、懲りずにそんな旅を繰り返していました。
稲わらは、そう長持ちするものではありません。
京都三条河原町の街角に捨ててあったのを拾ったおひつを暖かく保つための稲わらの保温籠、宮城県の鳴子のあたりの農家で譲っていただいた稲わらのバッグ、岩手県の雫石のなんでも屋さんで買った稲わらの馬の鞍や雪靴など、大切にしていましたが傷んでしまい、けっきょくは捨ててしまいました。
しかし、この腰掛けは、ちょっと形が崩れていますが、今もしっかり形をとどめています。
この農家には、どうして立ち寄ったのか、いまとなってははっきりしません。家が美しかったからかもしれません。当時、大原は、観光地ではなく、ただの農村でした。
よく覚えているのは、この農家の庭先で、おばあちゃんとよもやま話をしていたら、そのおばあちゃんが、突然、玄関の脇に設置してあった肥壺まですたすたと歩いて行って、話しながら着物の裾をまくって、おしっこをはじめたことでした。
私たち三人は、ただただあっけに取られて、おばあちゃんを見ているほかありませんでした。
当時はテレビも普及していなくて地方色は豊か、どこに行っても方言が聞かれました。
どこかの食堂で、おばちゃんが、縫っていない布に穴をあけて首を通しているブラウスを着ていて、横からは乳房が丸見えだったことがありました。
夜のバスで走っていると、ライトで上半身裸の夕涼みのおばちゃんたちが、縁台に座っているのが、次々と照らし出されるのを見たこともありました。
日本にも、おおらかな時代がありました。
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