先日、同じ八郷に住んでいる昔の同僚Gさんの家に久しぶりに行ったとき、勧められて、『ボーパール午前零時五分。』(ドミニク・ラピエール/ハビエル・モロ著、河出書房新社、2002)という本、上下巻を借りて来ました。
これは、インドのボパールで実際に起こった、史上最悪の化学工場事故を書いた本です。
1984年12月2日の深夜、ユニオン・カーバイト社の工場からイソシアン酸メチル42トンの漏出があり、やがて爆発し、工場に隣接するスラムの方に流れたガスによって、あたり一面は地獄となりました。
今日では、その死者は一万六千人から三万人と推定されていますが、移住労働者も多かったうえ、犠牲者数を減らして補償金を浮かそうと、当局によってトラックで運ばれ、海に捨てられた死体も多くあり、誰にも正確な死者数はわかりません。
現在、ダウケミカルの子会社となっているユニオン・カーバイト社は、アメリカ化学肥料製造会社の老舗で、ベークライトの主要な製造企業であり、原子力産業のパイオニアでもありました。
農薬を広めようと、インドに化学工場をつくることになったのですが、その工場で生産するイソシアン酸メチルは、常に冷やしておかないと爆発し、毒ガスをまき散らす、厄介なものでした。
古都ボパールには、いろいろな地方から集まった、民族も言葉も違う人々が住んでいます。
そのため、インド社会としてはタイトではなく、自由な気質が満ち溢れていて、それがユニオン・カーバイト社の誘致に結びつきました。
アメリカでは人里離れた場所に工場を建てていたカーバイト社ですが、ボパールでは、いろいろな経緯から、街のど真ん中の、しかもその日暮らしの人々が、 掘立小屋を建ててひしめき合って住んでいるところに隣接して建てることになります。
この本を読みながら、どうしても思い浮かべてしまうのは、原発のことです。
とくに、大きな地震が来たら建物が崩れる恐れのある福島第一原発の4号機の後処理に、今は総力を結集しなくてはならない時なのに、その覚悟がなかなか見えてきません。
ユニオン・カーバイトのボパール工場は、売れ行きの不振から、経費節減のため人員を減らし、給料をカットし、人々がそこで働くことの誇りを失っていくことから品質管理がおろそかになり、安全原則に違反し、やがてそれが大惨事へとつながりました。
昨日の『東京新聞』では、東電社員への賠償終了が報道されていました。彼らを優遇したいわけではありませんが、社員を大切にしないような会社が、まして他の人たちみんなのことを大切にできるかどうか、心配になってしまいます。彼ら自身に後始末をする士気が失われた場合、誰が後始末できるでしょう?
ボパールの新聞記者ラージクマール・ケーシュワニーは、ユニオン・カーバイト社を、事故の二年前に告発していました。彼は最初の犠牲者となったホスゲン製造責任者アシュラーフの友人でしたが、アシュラーフたちが常々、ガス漏れや爆発の危険性の話をしていたので、彼が偶然死んだのか、それとも工場に不備にあったのか、知りたくて調査を開始しました。そして、協力者を得て工場内を調査し、図書館や学者の元に足を運んで科学的な知識を得て、大惨事は時間の問題と確信するにいたりました。
おりもおり、アメリカ人技師たちが、工場の査定にやってきました。ケーシュワニーは査定役の書いた報告書を手に入れることができましたが、その報告書には、数々の設備の不備、設備部品の識別のしにくさ、救急備品の状態の悪さと置き場所の不適切さ、そして最先端の機器と警報装置が順調に作動することを定期的に確かめていないことなどが指摘されていました。
以下、一部引用してみます。
しかしながら、報告書で明らかになった一等驚くべき新事実は、人間の領域でのものだった。充分な訓練を受けていない従業員の、憂慮すべき輪番制や、不充分な教育方法、補修作業の報告に厳しさが欠けていることが気づかわれていた。(中略)
「お願い、わたしたちの町を助けて!」ラージクマール・ケーシュワニーは、1982年9月17日に出した最初の新聞記事の見出しで、そう叫んだ。工場の冒している危険を、数々の例をあげて示しながら、まず最初に工場幹部たちに呼びかけた。「あなたがたは諸施設の壁ぎわにあるオリヤー・バスティー、チョーラ、ジャイ・プラカーシュ諸地区(貧民街)をはじめとして、人口密集地域全体を危険にさらしている」。そのあとケーシュワニーは市民たちに訴えて、彼らの生命に重くのしかかるユニオン・カーバイトの脅威に気づくよう懇願した。「いつの日か不幸な出来事が起こったとき、自分たちは知らなかったと言ってはならない」と、市民たちに警告した。
しかし、彼の最初の記事はほとんど人の注意を引かないままでした。
ジャーナリストはひるまず、二週間後にまた攻撃に出た。「ボーパール、われわれは一人残らず火山の噴火口の上に座っている」そんな告知が1982年9月30日の『ラパト・ウィークリー』紙第一面にでかでかと書かれていた。ボーパールが死の町となり、散乱した石と残骸だけが町の悲劇的な最期の証拠となる日は近い」と、書き手は予言した。
記事には、危険の兆候であるいろいろな事実が書いてありましたから、町民みんなで工場の即時閉鎖を求めて駆けつけるべきでしたが、そうはなりませんでした。
ケーシュワニーがいくら説いても、馬の耳に念仏でした。
つぎの週、「わかろうとしなければ、諸君はみんな塵芥と化すだろう」と題した三番目の記事には、四日前の真夜中に工場からの避難があって、オリヤー・バスティーと近隣地区の住民たちがみんな先を争って逃げ出したガス漏れ事故に関することがつぶさに描写されていた。
これほどの無関心、これほどの無理解のため、とうとうジャーナリストはやる気をなくした。ボーパールの人々がカーバイトの宣伝ででっち上げた嘘を信じる方がいい以上、彼らをその運命のなせるままにしておこう。ケーシュワニーは新聞の発行を停止し、インドール行きの電車の切符を買った。
ケーシュワニーは、ボパールを去る前に、州の最高権力者や連邦最高裁判所長官宛にも長文の手紙を書きましたが、もちろん一顧だにされませんでした。それどころか、彼が去る直前、ボパールの労働大臣は、「カーバイドの工場があることを不当に思う理由は全くない。なぜなら、そこでつくられているホスゲンは毒ガスではないからである」と、議会で演説さえしていました。
原子力はCO2を出さない、クリーンなエネルギーだと主張していたのと、そっくりです。
文中の設備や状況を少し置き換えれば、今の日本の状況に当てはまります。私たちは今、噴火口の上に座っています。
ボパールの人々は行動を起こさず、唯一の財産とも呼べない占拠した土地にとどまり、そして毒ガスを吸って、苦しみながら死んでいきました。
ケーシュワニーはボパールから逃げましたが、原発事故の場合は逃げるところがありません。日本のどこへ行っても同じ、地球上のどこに行っても仕方ない恐れさえあります。
なんとか、この現状を打開して、みんなで憂いなく過ごしたいものです。
東電も、原発が使えなくなったからといって、説明も不十分なまま電気料金を値上げするのではなく、廃炉に向けての手順や経費を隠さず公表すれば、そのための経費は、別途、惜しまず出す人がたくさんいると思います。
そして将来、誰もが自由に電気をつくれるようになり、巨大な独占システムがなくなったら、どんなにいいでしょう。
フランスも、脱原発に向けているようですが、30年以上前に廃炉にした原発はいまも後始末中で、それはまだ100年も続くそうです。
様々な事実を公表せず事を進めようとしても、いつかこれが地獄となるのが目に見えている我国です。そしてまた、真実を探そうとしない国民も多いこと。また、福島やそれにかかわる人々から発信されるSOSの声すら見ざる聞かざるという人が多いように思います。目先の雇用や景気より、命がかかっている原発を止める事が先決であるという簡単な選択ができない国です。日本中の原発が福島と同じ目に遭わないと気がつかない日本なのかもしれません。どんよりした雲がいつも心にあります。
返信削除hattoさん
返信削除そうなんです。どんよりした雲です。気がついている人も、気がついていない人も、心から晴れ晴れした気持ちにはなれないのは、暗雲を背負っているからでしょう。
でも、元気出していきましょうね!