2013年7月11日木曜日

紋織(三)、タイの寝具など

タイ北部では、誰もが綿を栽培し、それを紡いで織って、衣類や寝具をつくっていましたが、今から80年ほど前に、ヨーロッパからの工場で織った木綿糸や木綿布が出回るようになり、人々の生活から、糸紡ぎや、機織りが消えていきました。
それでも、手織りの布の需要があったので、1980年代まで、村に何人かは綿を栽培したり、布を織ったりする人がいました。いまではどうでしょうか。


ナーン県の国境に近い村のシーツ、二つ折りにしてあります。
40センチほどの幅の布を150センチほどの長さに二枚織り、真ん中ではいだ布です。

タイ東北部では、伝統的にはイグサの茣蓙に寝ました。ところが北部では、昔から布を織って縫い、それにカポック(木綿)を固く詰めた、幅の狭いマットに寝ていました。
そのマットに対応したシーツですが、とくに結婚式の時、紋織を一部に施した模様入りのシーツを掛けたマットの上で、新郎新婦がバラモンの僧に夫婦の契りを誓う儀礼があり、このシーツは欠かせないものなのです。


これは、ラオスとの国境に』近い村で、一人だけ機織りをしていたリヤップさんの織ったものです。
1980年代の半ば、この村では人々は、少ない田畑にまだしがみついて、昔ながらのの暮しをしていました。ところが、お連れ合いが早くに亡くなり、村でもとりわけ貧しかったリヤップさんの家では、いち早く息子を出稼ぎに出す以外なかったので、他の家より現金収入が多く、わりとり余裕のある暮しをしているように見えました。

リヤップさんはシーツのほかには、パカマーと呼ばれる浴用布や、肩から下げる紋織の袋なども織っていて、顧客は村の人だけでなく、近くの山に住む山岳民族にまで広がっていました。
村の人は決して山には入りません。反対に山岳民族の人たちは、毎日のように彼らの特産品であるミエン(塩漬けにしたお茶の葉、嗜好品)を持って、時には育てた水牛を連れて、村まで下りてきて、家々を回り、持参したものを売ったり物々交換したりして、トウガラシ、ニンニク、米などを持って帰りました。
これらの品物を運ぶ、肩にも額にも掛けられる大きくて頑丈な袋を、リヤップさんがつくっていました。


下半分は裏です。
表で白く見えるところが裏では模様糸の色になっているので、模様全体としては裏の色が薄く見えます。


これは、幅が60センチ、長さが180センチほどの、タイ北部の別の地域のシーツです。
まだ、私たち家族がタイに住みはじめて間もないころだったと記憶していますが、なにか小さな集まりに行ったところ、村起こしにかかわっているタイ人がいて、何枚かの布を持ってきていました。
どこでつくられたものかも覚えていませんが、プレー県のものではなかったかと思います。


後に、似た布を見たこともありますが、地糸は工場製品ながら、模様糸は手紡ぎ、しかも藍染めという布は、二度と見かけることはありませんでした。


これは、平地民族ではなく、山岳民族の飾り布です。
どこの村で買ったのか、どんな民族グループだったか、全く覚えていません。


糸は化学染料で染めていますが、自分で栽培した綿でつくったのでしょうか。


どちらを表にしてもかまわないほど、裏表とも美しく織り上がっていますが、模様糸が少ししか出ていない面が表だと思います。


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