近くに住むふさこさんに、『ガラスの話』(由水常雄著、新潮文庫、1983年)と、『ガラス入門』(由水常雄著、平凡社、1983年)を借りて読みました。
『ガラスの話』は、ガラスの歴史、古代ガラスの製法など、これまで知らなかったことが一気にわかる、読みごたえのある本です。 著者がガラスに取りつかれているというより、ガラスが著者に取りついて書かせたのではないかと思われるほど、ガラス理解に役立つ本です。
ガラスが5000年の昔からつくられていたこと、紀元前1700年頃、メソポタミヤあたりで盛んにガラス製品が生産されていたこと、イラン(ペルシャ)で精度の高い古代ガラスが大量生産され、世界中に輸出されていたこと、新羅は高句麗や百済と違って、お隣の中国文化ではなく西方のローマ系文化との緊密な接触を保っていたことなどなど、足で歩き、古今東西の文献の中からガラスの記述を見つけ出し、かすかな点を線につなげて全貌が見える本に仕上がっていて、読んでいて、とても満足のできるものでした。
型ガラスが先にあり、紀元前一世紀ごろにシリアで吹きガラスの技術が編み出されたというのも、知らないことでした。
また、著者が正倉院のガラスに関心を持ち、それが奈良時代の建設当時から収められているものでなく、すべてが後に加えられたものであり、中には、ガラスの精度からして清の時代につくられた、比較的新しいものもあると発表して、当時の研究者たちから総すかんを食い、では自ら製法を復元してみようと、正倉院に収められたガラスのすべてを復元して、「実験考古学者」になっているところもおもしろいところです。
ただ、ガラスへの熱い思いがあり過ぎて、 ガラスは陶器ほど人に愛されていないとか、ガラスだけが自然界に転がっていた素材ではなく、人がつくりだした素材であるとか、繰り返し書かれていることはちょっと目ざわりでした。
というのも、本が書かれた当時、今ほど、ガラスをつくることは身近ではなかったとはいえ、すでに舩木倭帆さんとか、小谷真三さんとか、個人でガラスをつくっていらっしゃる方も出てきていらっしゃいましたし、金属だって、自然界に転がっている素材をそのままで使えないという点では、ガラスに似たところもあるはずです。
さて、古代ガラスには、色の違うガラスを重ねて、削り取る技法がよく使われています。
中国の清の乾隆ガラスもその一つです(写真は、『ガラス入門』から)。
で、我が家にも被せガラスがあることを思い出しました。
古い友人のみかよさんに、20年前にいただいた、みかよさんのご両親のつくられたコップです。
私が猫好きと知って、猫の模様のコップをくださいました。
ぼかしになっているところは段差がありませんが、くっきりと色が違うところは、段差になっています。
なんとなく日常に使うのははばかられて、棚の奥にしまいっきりでしたが、取り出して使ってみました。
どちらかと言えば、土くさいものの方が好きなので、いただいたときは、めちゃくちゃ喜んだわけではありませんでした。持っているものと、ちょっと感じが違う気もしていました。
でも、年を重ねたせいか許容範囲が広くなったせいか、今見ると、とっても素敵です。
そうそう、『ガラスの話』と『ガラス入門』の、唯一(でも根源的に)気に入らないところは、王侯貴族だけが愛したようなガラスばかりが取り上げられていることです。
もっとも、誰でもがつくれず、わざわざペルシャから取り寄せるような古代ガラスに、そこいらにころがしておける雑器なんて、ありようがないのですが。
ただ、ラムネビンの歴史が載っていたのは、嬉しいことでした。とんぼ玉ではなく、ビー玉の歴史も載っていればもっと嬉しかったのですが、紀元前からつくられていたとんぼ玉に比べると、石、木の実、泥団子からガラス玉となったビー玉の歴史は、取るに足らない新しいものなのでしょう。
鼻煙壺、いいですね。私も収集家の図録を持っていますが、いつまで見ていても飽きません。美しいですね。
返信削除hattoさん
返信削除鼻煙壺はいいですね♪
でも、一度手を出したら底なし沼のように見えます。まあ、ニセモノがつくられるような値打ち物は、手を出さないのが一番でしょうね(笑)。本も買うのが怖い(笑)。かわいいので、本を見ると欲しくなりそうです。