2014年8月2日土曜日
蚕の神さま
先日、北条に行った帰りに、かねてから行ってみたいと思っていた蚕影山(こかげやま)神社に行ってみました。
草が生い茂っていて、蚕影山神社は静まり返っていました。
蚕影山神社のことは、東さん、平石さんご夫婦から聞いていたのです。
座繰りのことを書いた時は、まさか本当に出会うなんて思ってもいなかった平石宣江さんとひょんなことで出会ってしまって、我が家にも来ていただいたことがありました。
ご夫婦は、昔養蚕をやっていた古い農家に住み、蚕を育て、それを糸にして生計を立てていらっしゃいます。
ご夫婦ともばりばりの「蚕オタク(失礼!)」で、群馬に住んでいらっしゃるのですが、つくばにある蚕影山神社にいらしたことはもちろん、日本中の養蚕に関する場所には足を運んでいらっしゃるようでした。
蚕影山神社は、蚕をお祭りしている神社の総本山だそうです。
「でも、蚕の神さまがよく見られるのは、長野や群馬じゃないの。どうして茨城に?」
「蚕をもたらした神さまが上陸したのが茨城県だとされているから」
そんな話を聞いておりました。
蚕影山神社には、「金色姫伝説」があります。その伝説とは以下のようです。
五世紀頃、天竺(インド)のリンエ帝には、金色姫(こんじきひめ)という娘がいました。リンエ帝の妃が亡くなり、後添えにきた皇后はこの金色姫を疎み、帝の目を盗んで山の中に金色姫を置き去りにしたり、島に流したりしてなきものにしようとしますが、いずれも失敗、とうとう庭に生き埋めにしてしまいました。
帝が姫をさがしていると、埋められたところが光ったので助け出すことができましたが、帝は姫の行く末を案じて、中が空洞になった桑の木の舟に姫を乗せ、泣く泣く海に流しました。
桑の木の舟は荒波にもまれて、茨城県の豊浦(現在の川尻小貝浜)にたどり着きました。そして、金色姫は地元の漁師夫婦に拾われて、たいせつに育てられましたが、やがて病を患い、亡くなってしまいました。
夫婦は深く悲しんで、唐びつをつくり、それに姫の亡骸を納めました。
ある夜、夢の中に姫が現れ、
「私に食物をください。恩返しをします。」
と告げました。
そこで唐びつを開けてみると、姫の亡骸は無く、たくさんの小さな虫がいました。
丸木舟が桑の木であったことを思い出し、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べて成長し、繭をつくりました。繭ができると、筑波の仙人が現れ、繭から糸を取る方法を教えました。
漁師夫婦は、この養蚕で栄え、豊浦の河岸に、御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称しました。
これが蚕影山神社のはじまりだというのです。
その後、民間信仰などに詳しい、近くのSさんにもお話をうかがいました。
Sさんのお話では、かつて蚕影山神社は、鐘紡など生糸に関係する企業が支援して栄え、養蚕をする日本各地から、蚕影山神社詣での人が後を絶たなかったそうです。
ところが、化学繊維の興隆で生糸産業が衰えるに従って、蚕影山神社もさびれて行きました。地元に氏子を持たなかった神社の当然の帰結だったというような話をしてくださいました。
Sさんのもっぱらの関心は、氏子が近くにいないこととともに、神社の前にある茶店のようなところでした。
「茶店のばあさんがおもしろいよ」
というのです。
蚕影山神社を訪ねたとき、その茶店にはばあさんはいなくて、脚の悪い息子(たぶん)がいました。ガラス越しにのぞき込むと、お札も置いてあるようでしたが、Sさんも宣江さんも言っていた、繭の形をした最中(羊羹?)は見えませんでした。
ガラス戸の中はなにもかも色褪せていて、もし最中を売っていたとしても、一年くらい前のものだとしか思えないほでした。
養蚕が日本にもたらされたのは遠い昔ですが、明治大正にかけて、日本各地は蚕景気に沸きました。この八郷も例外ではなくて、蚕で家を建て直した人も多かったようです。
奈良時代あたりまで、大陸から日本列島に、五月雨的に帰化人がやって来て定住したようです。
帰化人は、鉄器製造、稲作、瓦屋根などさまざまなものを列島にもたらしましたが、養蚕もその一つでした。
大陸から来るとなると、日本海側のみに上陸すると考えますが、それだけでは、このあたり一帯に数多くの古墳が点在していることの説明がつきません。移住集団は、果敢に太平洋側にも回って来たのでしょう。金色姫伝説で、養蚕が茨城の浜から広がったというのも、あながち作り話とも断定できません。
建物はともかくとして、蚕の神さまはいつからここに祀られているのか、諸説あるようです。
それにしても、蚕の大敵ネズミを獲るからと蚕の神さまになっている猫たちを見たいものです。
いつか訪れる機会があるでしょうか。
台風の余波で雨の一日です。
返信削除古文調で「今はむかし、、、、」
「絹の話を、」
戦時中ですが日本の落下傘や搭乗員のマフラーは絹製・蚕さんです。
アメリカにも大量に輸出していましたから
戦争が始まると、
「アメリカでは日本からの輸入がとまったから落下傘ができないぞー」っと。
ところがナイロンがありました。
この短絡的な考え方は昔からです。
昭ちゃん
返信削除あはは、日本人は都合のいい方へいい方へと解釈して、それを信じたふりをするのは、昔から変わりませんね。
まあ、蚕というものは、長い間人を養ってくれているものです。
これにも書いたSさんが、他のところに書いた文をさっき(笑)見つけましたが、鬼怒川=絹川、その支流小貝川=蚕飼川、糸繰川はそのままではないかと。全部養蚕に関係あるかもしれないとSさんは考えているようですが、なるほどなぁと感心しました。
確かにあとからの当てた字ですよね。
返信削除以前ブログでアップした「塞の神」も名前に意味があるのに、
北九州にあるのは道祖神と思いますが作り直したら今風に「幸の神・説明に幸せの神」だって、
旧長崎街道が泣くバイね。
昭ちゃん
返信削除金達寿の「日本の中の朝鮮文化」を読むと、ずっと同じだったと思われる神社仏閣の名前もずいぶん変えられているのですね。このあたりも狢内(むじなうち)という素敵な名前がありましたが、ひどい名前だということでつまらない名前に変えられてしまいました。都心の狸穴はそのままなのにね(笑)。あれっ、狸穴もなくなっているのかな?
鬼怒川が絹を運ぶ川だったことは確かです。古い名前には、いろいろな意味があって面白いですね。五反田、六反田、一軒屋、八軒屋などという名前も好きです♪なんとなく、昔の姿が偲ばれます。
我が家の近くでした。
返信削除町名として残っていますが、麻布台に含まれています。
昭ちゃん
返信削除そうか、狸穴は残っているんですね。狢内より幸せでしたね(笑)。
もっとも、ブログのタイトルの八郷も、合併で消えてしまいましたが、いつまでも使い続けています。
名は体を表すというか、どうでもいいとは言えないものがあります。なんて、連続テレビ小説みたいですが(笑)。
こんにちわ、途中で失礼します。
返信削除うちのある一帯は町名は砧です。布をたたく道具だったそうで、「ふるさと寒く衣打つなり…」なんて歌はこの砧の音だと聞いたことがあります。
ここらから多摩川をもう少しさかのぼると、布田、とか調布、とか染地とか、布にかかわる地名が出てきて面白いです。絹というよりは麻や木綿のようですが…、
karatさん
返信削除そうですね。東京には、失われた地名も多いけれど、また残っている地名もバラエティーに富んでいて面白いですね。きぬたは、とっても素敵な名前です。私は食料生産と布の材料を植える場所が、昔は競合したのではないかと思っていたのですが、布の材料用の畑もしっかり確保されていたようです。食料も大切だったけれど、布も大切だったのでしょう。
余談ですが、多摩台地の田無などという地名も昔が偲ばれます。
春さんのブログに名前がのって、うれしいです!
返信削除神社の茶店に羊羹はありませんでしたか。わたしが行ったときは、羊羹は売る気のないようなところに置いてありました。食べられるのか心配になる感じです。食べられなくても包装紙が可愛らしいので買ったのですが賞味期限は大丈夫でした。もし、もう売っていないのならとても残念です。わたしは他に、お守りと神社の名が入った手拭いを買いました。
東さん
返信削除コメントありがとうございました。嬉しいです。ビルマからはお帰りになったのですね。
実は、車を駐車させてもらった茶店の荒れた庭には除草剤が撒かれていて、「いや、困ったな」と思っていたら、男性がぬうっとどこからともなく現れ、駐車代金200円を受け取ると、姿を消し、Sさんから聞いてはいたのですがそこでビビってしまいました(笑)。
参拝して戻ってきたら、また男性の姿があり、この店の前で映画のロケがあったこと、俳優(確か役所広司)がガマの油を売ったことを話してくれました。彼はいったいどこから道に出てきたのか、ガラス戸を開けた音は聞きませんでした。
店の中は、石段を登る前にじろじろ見ましたが、どこも布がかかっていて、しらっちゃけていて不気味に思いました(笑)。もし男性がこのとき、ガラス戸を開けて道に現れていたなら、たぶん店に入ったと思います。
でも、音もなく立っていたし、なんとなく異界というか、タイムスリップして、どこか別世界に行きそうなおどろおどろしい雰囲気までして、とうとう入れなかった(爆)というのが実情でした。
羊羹、きっとあるのでしょうね。また、行ってみることがあるかなぁ。そうそう、横丁から山頂まで車で登れる道をつくっていて、神社の脇にユンボが置いてありましたよ。帰りにその道を少し歩いてみましたが、まだ舗装されていなくて、雨で土砂が流れてえぐれていて、いっそうもの寂しい感じがしました。