2015年10月21日水曜日

ビルマの籃胎(二)


パゴダのような形の蓋ものは、ビルマの、ごちそうやお菓子を入れてお寺に運ぶ器です。
結婚式などにも使われたのかもしれません。

漆の下地は、籃胎(らんたい、籠で形をつくりその上に漆を塗る)でできていますが、蓋の尖った部分は、木を轆轤で挽いたものを使っています。


蓋の内側です。


蓋を開けると、内側に、入れ子のお皿の形をした器が入っています。
ビルマの蓋ものには、キンマー入れにしろ、お弁当箱にしろ、入れ子のものがよくあります。


その入れ子をはずしたところです。
上下に違うごちそうを入れることができます。


本体は、縁で細くなっていて、蓋もまた縁で細くなっているので、ぴったり閉まるというより、蓋を乗せる感じです。
2011年の地震では、蓋がはずれ本体も乗せてあった場所から落ちて、ずいぶん傷んでしまいました。


傷んではがれ落ちたところから、竹ひごと、目地に詰めたものが見えます。


くびれたところは、三段のレリーフ模様、そして下には、蒟醤(きんま)塗りのほかに、金彩も施されていますから、新しかったときは、きっと華やかに光り輝いていたことでしょう。


底は、別に編んだ籠をくっつけています。
思いついて頭に乗せてみたらぴったり乗りました。供物を入れた蓋ものを、頭に乗せてお寺まで運んだのでしょう。

1981年にビルマに行ったとき、パガンの寺院でこれと同じような蓋ものが、あるお寺の仏さまの前に一つ、二つ置かれているのを見ました。
これはタイで買ったもの、タイの骨董屋では、ときおり見かける蓋ものでしたが、実際に使われているのを見たのは、そのときが初めてでした。

当時のビルマは、半鎖国状態でしたが、外貨獲得のため、一週間だけの観光客を、少人数だけ受け入れていました。
入国と同時に、わりと高額の外貨をビルマのお金に両替しなくてはならず、マンダレー、パガンなど行くことを許されているわずかの地域では、到着と同時に観光案内所で、行動や出費状況などを記載した紙を見せて、いちいち細かく報告しなくてはなりませんでした。
町の建物はどれも第二次世界大戦以前に建てられたものばかり、自動車も少なく、牛車が行きかっていて、パガンでは、一日にできるだけたくさん回りたくて、借りきった馬車で、でこぼこ道をおもいっきり揺られたものでした。

寺院に向かって、仏縁日に着飾った人たちが三々五々、この蓋ものを頭に乗せて集まってくる様子は今も続いているのでしょうか?
当時、女性は老いも若きも結って曲げにした髪に、アウンサン・スーチーさんのように生花を挿していました。朝方ははっとするくらい美しく、時間が経つにつれてしぼんだ花は、夕方にはみすぼらしく頭に乗っていました。

あれから、ビルマには一度も行ったことがありませんが、そんな光景は今でも見られるのでしょうか?








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