2016年3月7日月曜日

瓦屋根のこと

明治以降、防災対策として瓦屋根が推奨されて以来、瓦を焼く窯は、日本全国にたくさんできました。
私が育った村にもあって、よく遊びに行きましたが、大きななまこのような形の窯からは、ときおり、うっすらと煙が出ていることがありました。
その窯が「だるま窯」と呼ばれていることは、ここへ来てから、本で知りました。今でも群馬県の藤岡に一つだけ、だるま窯を焼き続けている方がいらっしゃいます。

それにしても八郷は、瓦屋さんの多いところです。しかも、葺くだけではなくて、かつては瓦を焼いていた瓦屋さんがほとんどです。
桜井さんは、桜井瓦店の四代目です。
おじいさんの代までは瓦製造だけでしたが、お父さんの代から瓦葺きもはじめました。

八郷で、第一次の家建て替えブームが起こったのは、明治の終わりごろでしょうか。蚕で儲けた人たちが、次々と茅葺きの家を瓦葺きの家に建て直しました。大火もよくあったので、瓦屋根が奨励されていたということもあるかもしれません。
その当時に、桜井瓦店をはじめとして、瓦を焼く窯がたくさんできました。瓦店は瓦を焼くだけ、それとは別に、瓦を葺く人たちがいました。

次の建て替えブームは戦後の昭和30年代でしょうか。
日本国中に建設ラッシュが起こり、古いものを壊して新しいものをつくりました。農家の息子たちの多くが農業を父母に任せて土建業に携わるようになり、道路をつくったり、他人の家をつくったりすることで経済的に潤い、自分の家も建て替えました。
 
  
瓦は製造だけだった桜井家では、お父さんの時代から、自ら葺くこともはじめましたが、ほかの瓦屋さんたちも同様の道をたどったようです。
背景には、だるま窯で焼いた瓦は、瀬戸や淡路島の温度管理のできる近代的な工場で大量に生産される瓦に、品質でもコストでも太刀打ちできなくなったことがあったのでしょう。流通網も1960年代、70年代には格段に発達してきていました。
桜井瓦店は、瓦を葺くことと、薪を燃料としただるま窯を、近代的な瓦工場に変えることによってて、大きな波を乗り切りました。

私たちがここにきた15年前には、製造もしている瓦屋さんは二軒だけになっていました。その、二軒のうちの一軒の渡辺瓦店も、2011年の地震を契機に製造をやめました。八郷で今でも瓦を焼いているのは、桜井瓦店だけになりましたが、いつも焼いているのではなく、他では手に入らない特殊な形瓦が必要になったとき焼き、通常の瓦は瀬戸や淡路島から取り寄せています。

桜井さんは、瓦の製造技術をお父さんから習い、葺く技術は京都で習いました。
一緒に働いている人たちは、京都で同じお師匠さんに習った仲間たちだそうです。お寺の屋根の修復や新築、土蔵の復元など、桜井瓦屋軍団には引きも切らず仕事があるようです。


大工仕事もそうですが、瓦葺きも難しいのは端の始末や、異質なものとの取り合いです。


また、きれいな「収め」もたいせつです。
この小さな屋根は、左右の瓦の段数が違いますが、棟瓦のすぐ下の瓦の大きさを同じに仕上げてあります。もし、両方の瓦を下から漫然と葺いてきて、一番上で左右の瓦の大きさが違ってしまうと、とても見苦しいものになってしまいます。
そのため、左右対称になるように、垂木と野地板で下地をつくる段階から、短い方の瓦の「出」の長さを厳密に決めて、瓦屋さんから大工さんに垂木の長さの寸法を知らせておいてあります。


今回、もっとも素晴らしい仕上げだったのが、コンクリートと瓦の取り合いの「雨仕舞」でした。
もともとは、予算の関係から板金屋さんに頼まず、夫が板金仕事をする予定だったので、もっとおおざっぱなものになるはずでした。
ところが夫の膝が急速に悪くなり、歩くのも痛いので、板金どころではなくなりました。困っていましたが、瓦屋さんが板金もできるというのでお願したら、こんな美しい収め方になっていました。
立ち上げた銅板の端は、溝を切ったコンクリートに埋め込んで、コーキングしてあります。それを曲げて、板を包んでぶら下げ、瓦の端を覆っています。パーフェクトな仕上げです。
銅板は、すぐに黒ずんで、目立たなくなります。

鉄骨の下には「のし瓦」が二段、きれいに収まっていますが、この高さはもともと計算済みでした。厳密に計り計りして、垂木の高さを削って、調節してありました。
  

当節、家は簡便なハウスメーカーから買ったり、高層の集合住宅を買ったりする時代ですから、日本瓦の需要は減っています。それに伴い、瓦を葺くことのできる職人さんも減っているそうです。
そんな中、八郷には瓦を葺ける人が、まだまだたくさんいるということは、もしかしたら珍しい、そして素晴らしい現象かもしれません。

日本の風景には、やはり瓦屋根や茅葺屋根がよく似合います。







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