2016年4月6日水曜日
『ぼくは弟とあるいた』
日本画家の小林豊さんの、『ぼくの家から海がみえた』(岩崎書店、2005年)、『ぼくは弟とあるいた』(同、2002年)、『ぼくらはあるき続ける』(同、2007年)の三部作があります。
小林さんが、まず、『ぼくは弟とあるいた』を描き、その次に、時間をさかのぼって『ぼくの家から海がみえた』を描いたのは、戦争がはじまって祖父の家に避難しなくてはならなかった兄弟が、もともとはどんなに豊かで楽しい生活をしていたかを、描いておかなくてはならないと思ったからなのでしょうか?
「ぼく」の両親は、船で長い旅をして、船乗りだったおじいちゃんの生まれた国にやってきます。
その背景は書かれていませんが、戦争に巻き込まれ、逃げてきたようです。
やがて、お父さんは船大工の職を見つけ、弟が生まれ、お母さんの大好きな海が見える場所に家を建て、畑もつくり平穏な生活がはじまりました。
別の国から逃げてきた女の子とも友だちになりましたが、戦争が拡大したのか、あるいは停戦が成立したのか、その女の子の一家は、また船に乗って行ってしまいます。
ここまでが、『ぼくの家から海がみえた』のお話です。
北の町ではじまった戦争がだんだん大きくなり、兄弟はもっと南に住むおじいちゃんの家に二人だけで行くようにと、両親に送り出されます。
兄妹の乗ったバスは、戦禍から逃げる人たちを満載していました。しかし峠を越えて砂の平原を走っていたとき、バスは壊れてしまいます。
しかたなく、バスに乗っていた一行は暑い砂漠を歩きはじめました。
日が暮れると急に寒くなる岩山で野宿もしましたが、旅芸人の一座が助けに来てくれて、先へと進み、ついにバスの中にいた一人のおばあさんの目的地である村にたどり着き、一同、ひと安心します。
その村で、おばあさんの娘には無事赤ちゃんが生まれたり、旅芸人が芸を見せてくれたりして、みんなで愉しい時間をすごします。
戦禍から逃げることと日常は切り離されたものではなく、厳しい状況の中にも楽しみがあり、平穏な生活の中にも危機が潜んでいるのです。
やがてバスに乗り合わせた人たち一行は再び先を急ぎ、とうとうバスの終点である町について、そこで別れます。もちろん、兄弟はおじいちゃんの家を目指しました。
ここまでが、『ぼくは弟とあるいた』です。
兄妹の頼りにしていたおじいちゃんが、亡くなりました。
二人きりになった兄弟は、船乗りだったおじいちゃんの残してくれた世界各地の珍しいものを、ライターやチョコレートと交換してはそれを列車の中で売って、日々の暮らしをたてます。
ところが、ある日車掌さんにとがめられたことから、カーブに差し掛かってスピードが落ちた列車から、列車の中でバイオリンを弾いて歌を歌っていた姉弟とともに、飛び降ります。
兄弟は、姉弟の暮らす村に迎え入れてもらって、そこでしばらく穏やかな生活をしました。
両親とは、お互いに手紙を書き合うのですが、行違ってなかなかその手元に届きません。
やがて、停戦のニュースがもたらされます。
兄弟は村に別れを告げて列車に乗り、船がつく港町へと急ぎます。
港町では大勢の人たちが船を待っていました。
兄弟も待ちました。
そして、船の中に、懐かしいお父さんとお母さんの姿を見つけます。
巻末には、
「この絵本は黒海地方を舞台に描きました。いま、世界中どこにでもあるお話です」
と、書かれています。
連日の安保法施行の記事が、反対運動も含めて新聞に掲載されていますが、
「私たちの息子を、戦場には行かせない」
というお母さんたちの意見を目にすると、私はちょっと背筋が寒くなります。
安保法施行の真の目的は、日本人を戦場に送ることでしょうか?日本政府はアメリカの圧力に屈しているのでしょうか?
否。真の目的は、安保法を施行して、憲法も改変して、武器(ICも含む)産業にもっともっと積極的にかかわって利益を上げたい、それによって、世界における日本の経済優位を保ちたいという、大多数の日本人の思いを、政府が反映しているのだと思います。
戦争の根底には、限られた地球資源の取り合いがあります。
国民に、もう少し貧しくてもいい、二流国になってもいいから、戦争に加担しないで生きたいという覚悟がないのを、政府は完全に見すかしているとしか思えません。
「核や武器を持って世界経済の優位に立ちたい。それらを持てば、市場を見つけて売らなくてはならない。しかし、自分は無傷でいたい」
というのは、あまりにも虫が良すぎるのではないでしょうか。
それは、シリアや、イエメン、スーダン、アフガニスタンの息子たちは死んでもいいということにつながっています。
小林豊さんの別の本、『せかいいちうつくしいぼくの村』(ポプラ社、1995年)は、アフガニスタンの生活を描いた本です。
スモモやサクランボを町に売りに行く、平和で楽しい生活が描かれています。
でも、お話の最後は、
「この としの ふゆ、村は せんそうで はかいされ、いまは もう ありません」
という、悲しい言葉でしめくくられています。
ヨーロッパで絵の修業をするため、船に乗った小林さん。立ち寄るアジアやアフリカの港の街は、文明国よりはるかに魅力的だったそうです。その帰り道、日本が好きな王様が日本を真似て作ったというアフガニスタンの村に出会い、「世界一美しいぼくの村」を描いたたそうです。小林さんは、世界中を旅され、日本の危うさをよく知っている方です。大ファンです!
返信削除mmerianさん
返信削除競争社会に乗って、国家という単位で乗り切って勝ち残る社会は、いつかこけてしまう社会。そうではない道を探してどう生きるか。そのことを考えるために、小林さんは、広い世界のことを教えてくれているのだと思います。