2016年8月19日金曜日
はなちゃん一家からのお土産(2)
息子からのお土産は、ソヴィエト時代のマトリョーシカでした。
東京郊外に住んでいた独り暮らしの男性が、身よりも少なくなったので、兄を頼って出身地である東京下町に引っ越ししたのを息子が手伝ったとき、もらってきたものだそうです。
「わぁ、全部まとめてその人からのもの?」
「そう。亡くなった奥さんのものだったらしいよ」
セミョーノフ(地名)。
律儀な方だったらしく、どれも底にラバルを貼ってありました。
弧になったMADE IN USSRの下にマトリョーシカのある、このタイプのラベルは、『マトリョーシカ ノート3(改訂版)』(道上克著、2013年)によると、1960年代から80年代まで使われたようです。
セルギエフ・パサード。
マトリョーシカの底には、
セルギエフ・パサードではなくて、「ザゴロスク地方」と書いてあります。
ザゴロスクってどこ?
『マトリョーシカ ノート3(改訂版)』によると、セルギエフ・パサードという市名は、1930年にザゴルスクと改名され、1990年にまた、セルギエフ・パサードに戻されたそうです。
もう一つのセルギエフ・パサードのマトリョーシカの底にはラベルが貼ってありませんでした。
ところが開いてみたら、紙片が入っていました。持ち主は共産党員の方だったのです。
これを息子に見せて、
「亡くなった奥さんて、どんな人だったんだって?」
と、訊いてみました。
「学校の先生だったらしいよ」
「そうだったの」
『マトリョーシカ ノート3(改訂版)』の著者の道上さんは、膨大な数の古いマトリョーシカを持っていらっしゃいますが、そのほとんどを日本の骨董市で手に入れられたとのこと、かつてはセミョーノフのマトリョーシカしかほとんど知られていなかった日本で、どうしてあんなにバラエティーに富んだマトリョーシカが手に入ったのかと、かねがね疑問に思っていました。
それが、マトリョーシカが共産党の「赤旗まつり」などで売られていたとは面白い、面白すぎる。と、一人で、静かに盛り上がってしまいました。もっとも、そのルートばかりではないとは思いますが。
キーロフ。
メイデン。
いずれも、1970年代、80年代のマトリョーシカでしょうか。
そして、ポーランド製のマトリョーシカ。
ソヴィエト製とは、形が違います。轆轤は、とても薄く、上手に挽かれています。
珍しいところでは、インド製のマトリョーシカがありました。
轆轤仕事も絵つけも、なかなかの出来栄えです。
インドのマトリョーシカのみ、一番小さい娘(神さま?)が失われていましたが、あとは色焼けもなくとてもいい状態でした。
マトリョーシカと学校の先生の繋がりが意外過ぎてびっくりです!!!でも字がいかにも先生っぽいですね~。
返信削除インドのマトリョーシカは顔がコワイです。目が3つあるのはシヴァってことでしょうか?向かって右側の頬っぺた(目の下)の丸は何でしょうね?どんどんマトリョーシカが集まってきますね~。
hiyocoさん
返信削除私も、そんなところからマトリョーシカが普及していたなんて、思っても見ませんでした。面白いですね。字は、読みやすい、整った字です。
シヴァ神は男でしょう?最もとても優形ですが。
インドのマトリョーシカで検索してみたけれど、似たものは見つかりませんでした。で、サリーを着た女性のマトリョーシカが多かったのですが、やはり左の頬に丸がありました。何でしょう?いつになるかわかりませんが、今度機会があったら、インドの人に訊いてみます。
マトリョーシカが、そんなに大きなものでなくてよかったです。大きかったら母屋を乗っ取られます(笑)。
今頃涼しい山中湖のはずが、体調不良のため私だけ居残りになりました。今はだいぶ良くなって来たのですがアディーもいないのでブログはお休みです。
返信削除マトリョーシカの丸ですが、「インド、人形」で調べたら鼻に輪っかを付けた画像がいくつかありました。インドの女性は鼻の左に鼻輪をつけるそうですね。それじゃないでしょうか~。
hiyocoさん
返信削除体調が悪いのに、コメントありがとう。そういえば、インド人は鼻輪ってやってましたね。私はピアスの穴は開けてないのですが、その理由が、「ではなぜ鼻輪はしないの?」でした(笑)。
と、途中まで書きかけてお客が来て、書けませんでした。早く回復してくださいね(^^♪