2017年9月10日日曜日

田の神どん

いつだったか、ログビルダーのNさんと話していて、田んぼの神さまの話になったことがありました。
私は、タイの農村で、田植えのころに、豊作を願って、竹やヤシで六角形に編んだものを田んぼに立てる話をしました。


自分で撮った写真があると探しましたが出てこない。本で見つけたこれは、山岳民族が、集落に悪霊が入ってこないように立てるもので、田んぼの神さまではありませんが、田んぼに立てるものも、これとよく似ています。
もちろん、村や民族グループによって、少しずつ違います。

Nさんは、今ほかの人に貸しているけれど、父の遺した、田んぼの神さまの本を持っているので、今度見せましょうと言いました。


しばらくして、Nさんが、『田の神像ー南九州大隅地方』(野田千尋著、木耳社、1971年)を貸してくれました。
お父上が、この地方の御出身で、懐かしくご覧になっていらっしゃったのだそうです。


鹿児島県内、あるいは宮崎県の旧島津領だった田んぼのあたりを歩いていると、田んぼの畔や、田んぼを見下ろす小高い場所に、メシゲ(しゃもじ)、すりこ木、そのほか椀や鈴、鍬、扇子、握り飯、杵、瓢箪、稲穂、飯櫃などを抱えた、「田の神どん」の石像をよく見かけるそうです。


立っているのもあれば、座ったり、しゃがんだりしているのもある石像で、どれも田んぼを優しく見ていらっしゃいます。


どんなに堂々としている「田の神どん」でも、ユーモラスで、素朴で、どこか土のにおいが漂ってくるものばかりです。


「田の神どん」は、稲の生育を守り、稲作の豊穣をもたらす農神です。
野外にある、大型の「田の神どん」は村の「田の神講」の主神ですが、ほかにも、講中の宿々を輪番で廻る、小さな「廻り田の神どん」や、個人所有の「田の神どん」もありました。
「廻り田の神どん」は、講宿の床の間に安置されました。


日本人が米を食べはじめてから約二千年が過ぎました。
田の神信仰そのものは全国的ですが、南九州にあるような、「田の神どん」という具体的な人形(ひとがた)の石像は、他の地域にはどこにもなくて、南九州独特のものだそうです。


著者の野田千尋さんは、この地方にこんなに「田の神どん」が多いということは、裏返せば、稲作の苦悩がそれだけ甚だしかったのではなかったかと推測しています。


また、南九州の一角を、「田の神どん」の宝庫にしたのは、阿多カルデラや姶良カルデラの火山活動が、石像の材料となる凝灰石をあふれさせていたのではないかとも推測しています。

以下は、「田の神どん」にまつわる儀礼です。

「田の神どん」に関する行事に、「タノカンオットイ」があります。
オットイとは、鹿児島地方の方言で、盗むということです。
他部落の「田の神どん」を盗んで自部落に祀ると、付近の田んぼは非常に豊作になると言われていました。そのため、元気盛んな若者たちが夜の紛れて、「田の神どん」を盗み出しました。
そして、返すときはあらかじめ断りを入れ、白昼堂々と、それを返しに行きました。

北俣の長瀬さんの「田の神どん」は、1951年に「お嫁入して、田んぼを守る力を磨いてきます」という置手紙を残して姿を消しました。 どこへ行ったか、皆目わかりませんでしたが、1964年のある日、「田の神どん」を「オットッタ」内村部落の代表者が長瀬家に訪ねて来て、無断拝借の断りの挨拶を述べ、返還の日取りを決めました。
13年ぶりに「田の神どん」が還ってくるのです。


内村部落では、高さ60センチ、重さ75キロの「田の神どん」の苔や泥を洗い落とし、化粧を施し、注連縄を飾って、「ヨメジョックイ(花嫁さんこしらえ)」をします。


お別れの儀式をした後、


馬に引かせた車に米俵を三俵乗せた上に「田の神どん」を安座させ、ホラ貝の合図とともに、部落を出発して、長瀬家を目指します。
車には、酒樽二本、焼酎二升、金一封も乗せ、注連縄を張り巡らします。
一行は、「五穀豊穣」と「豊年満作」ののぼり旗を立て、楽器を奏で、ウマカタ節(結婚式の時の歌)を歌いながら、賑やかに行進して、長瀬家を目指します。

長瀬家では、親類縁者たちが紋付羽織袴姿に威儀を正し、一行を「サカムカエ」します。


「田の神どん」を床の間に俵などとともに据え、お膳や酒樽を供えます。


宴たけなわなころ、「田の神舞い」も飛び出して、めでたしめでたし、その後、「田の神どん」は、氏神様と並んで、無事、長瀬家の庭に安置されました

次は、結婚式に登場する「田の神どん」です。
「田の神どん」は、農神であると同時に縁結びの神さまでもあったのです。


ある家で結婚式が行われているころ、村の若い衆たちが、「田の神どん」を担いで、その家に向かっています。
頬かむりをして家をのぞき込んだ若い衆たちは、頃を見計らって、乱入します。


そして、披露宴の会場へ、「田の神どん」を運び込みます。


新郎新婦の両側だけでなく、真ん中にまで、「田の神どん」が、据えられます。


翌朝、新郎新婦は二人で、「田の神どん」をもとあった場所をさがして、そこに返さなくてはなりません。
意地の若い衆にかかると、四キロも先の「田の神どん」を持ってきて、二人に、長い道のりを運ばせます。
いやがうえにも夫婦の絆が強まったそうです。







6 件のコメント:

  1. 春姐さん
    すべてに神が宿ると言う思想はアジアが発祥ですか、
    家内の両親が炭焼きだったので三月には山仕事を
    休みました。
    彼岸ごろかなー 記憶にないけれど。
    宮崎の高千穂からの下山で(旧吉都線)で見た記憶が、、、。?

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  2. 昭ちゃん
    アジアだけではありません。世界中すべての地域です。
    自給自足の生活をしてみたら、すべてのものが自分の生存を支えてくれているのに気づくから、当然といえば当然ですね。
    すべてに神が宿る思想は、アニミズムと言われて、大宗教に追われていきました。といっても、イスラム教の陰にもキリスト教の陰にも、アニミズムはしっかり生き残ってもいると思います。それが、「魔女狩り」とかで、駆逐の標的になりましたよね。
    日本人も表面的には無宗教と思っている人がほとんどだと思いますが、ゲンを担いだり、大木を見たら心打たれたり、アニミズムの心は生き続けていると思います。

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  3.  さすが春姐さん納得です。
    生活に欠かせない水も山そのものがご神体だし、
    色々な物を生み出してくる母体が大地ですからね。

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  4. 昭ちゃん
    パレスチナ人はイスラム教徒だと思うでしょう?それが半分くらいはキリスト教徒です。パレスチナにはキリストの生誕教会も、降誕教会も、ゴルゴダの丘もありますしね。また、都市には無宗教、言ってみればコミニスト(そういえば、無宗教の日本人もコミニスト?)もいます。
    そして、田舎に行くと、パレスチナでもイスラエルでもシリアでも、別の宗教、アニミズムを信じている人たちもいっぱいいます。みんな共存しています。
    だから、よく言われているような宗教戦争なんて「建前」で、本当のところ、パレスチナとイスラエルの争いも、土地争いだったり、水争いだったりします。
    かつて、レバノン杉を敬っていた人たちは、西洋に船材料が欲しいからと蹴散らかされ、木を伐られてしまいました。そして、そのうちレバノン杉は枯渇したので、大航海時代は、東南アジアのチークが船建造のためにことごとく伐られました。まあ、宣教師はいつもその手先でしたね(笑)。

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  5. 春姐さん随分前の話ですが、
    友人がバブテスト系でした。
    テルバビフ空港の乱射事件・日本赤軍?で随分悩んでいました。
    私にはいまだにわかりませんが、、、。

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  6. 昭ちゃん
    いずれにしても、武力の応酬はよい結果を産むことはないと思います。
    とはいえ、イスラエルによるパレスチナ社会の壊し方には、目に余るものがあるのも事実です。今でも、自分たちにシンパシーを寄せてくれたコーゾー・オカモトの名前は、ヨルダン川西岸やガザに住むパレスチナ人なら誰でも知っていますが(笑)。

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