益子の内町工場という古道具屋さんで、「木のいのち、木のこころ」三部作のうち、『木のいのち・木のこころ・地』(小川三夫著、草思社、1993年)に出逢いましたが、やはり内町工場で、『木に学べ』(西岡常一著、小学館、1988年)と『木の教え』にも出逢い、期せずして同じところから、三部作ではありませんが、小川さん、西岡さん、塩野さんとお三方の本を、合計してワンコイン以内で揃えたことになりました。
西岡さんが法隆寺の大工さん、小川さんが宮大工でいらっしゃるのに比べると、塩野さんは物書きなので、経験に基づいた前お二方とは言葉の重みが違うのですが、その分、いろいろな分野の方に聞き書きをして、「木」というものを立体的にとらえようとしたのがこの本でしょうか。
『木の教え』は、宮大工だけではなく、建具屋、舟大工、橋をつくる人、曲げわっぱやかんじきなどをつくる職人、こけら葺き職人、木地師、漆掻き職人、蔓で籠をつくる人、木の繊維で布をつくる人、炭焼きの人など、木を相手に仕事をしてきた人々が、どう木の性質を知り、どう木の特性を生かして使ってきたかを書いた本で、木に携わってきた人々の知恵が紹介されています。
この本で一番興味深かったのは、江戸時代に伊達政宗がつくらせた、外洋に出る船、「サン・ファン・バウティスタ号」を復元(1993年に進水)したという話でした。
サン・ファン・バウティスタ号は推定500トン、スペインの「ガレオン船」をモデルとして、17世紀に建造され、1613年の初航海では、支倉常長などを乗せて、第一目的地メキシコに向かって太平洋を渡った船ですが、船の丸みのある部分、人間でいえば肋骨に当たる部分(肋材)に木の「あて」が使われています。
「あて」は、斜面で根を張った木が、途中から上へと伸びるために曲がった部分のことで、通常の建物には癖が強すぎて使いません。
でも、船では肋材として、割って左右対称で使うというものです。
建造中の復元版サン・ファン・バウティスタ号 |
しかも、洋の東西を問わず、船大工さんたちは「あて」を肋材として使ったらしいのです。
となると、その昔、ヨーロッパ人が船の材料として中東で伐採したレバノン杉の船の肋材はどんなものだったのでしょう?
ヨーロッパ人はレバノン杉がなくなると、東南アジアのチークに目をつけ、船材として伐りました。イギリスが植民地を、インドからビルマ(東インド)にまで広げ、事実上タイも勢力下に置いたのは、ひとえにチークのためでしたが、そのときも「あて」まで伐って持って行ったのでしょうか?
いろいろ想像が膨らみます。
カンボジアの港で、何度も建造中の木の船を見ましたが、もっと目を開いて、「あて」が使われていたかどうか、よく見なかったのが残念です。
曲がっているところつながりの話ですが、手斧(ちょうな)の柄は、生のカシの木を曲げて、紐でくくって形づくると書いてあったのも面白いと思いました。
考えてみれば、手斧の柄は曲がっているのですから、曲がった木の枝を利用するか、曲げるかしかありません。
あらためて我が家の手斧をよく見ると、確かに、曲がったところの木の肌が、無理させられている感じがありました。
生木とはいえ、よくこんなに曲がったものです。
木の性質が生かされてきたことや、道具にはたくさんの知恵が詰まっていることはよくわかるのですが、これらの木に関する本を読んで、ちょっとだけすっきりしないのは、どうして技を残してきたのに、木を残してこなかったのかということです。
西岡さんは、樹齢2000年の木は、その木の特質を生かして建物を建てれば2000年は建ち続けるとおっしゃっています。
でも、木を残してこなかったので、法隆寺の建て替え(完成は1985年)にも、薬師寺の再建にも、台湾ヒノキが使われました。余談ですが、夫の母の実家は、深川で台湾ヒノキを扱う材木商でした。
そして、台湾のヒノキも枯渇したのか、この頃では神社仏閣の建て替えには、ラオスヒノキが使われています。
ラオスの山地に住む人たちの、生活の基盤である森を失う窮状を見てきた者としては、自分の森を持って、20年ごとに建て替えている伊勢神宮の方が、潔いと思ってしまいます。
ちょうなを使ってのハツリが出来る人は日本で現在2名しか残っていないと聞いていますがどうなのでしょうね。その技を持つ者も衰退の危機にあり、木も育てることもしなかったのは日本が経済主軸になってしまったからでしょうかね。伊勢神宮に使われる麻はやっと栽培の許可がおりましたが、来年は遷宮の年ですので伝統的な支度が出来るでしょうか。父の生家は三重県の過疎レッドデータ地区で伊勢本街道沿いにあるのですが、その並びにある柿野神社では昔も今も変わらず祭事が受け継がれていますよ。何でもそうですが長い年月を経て受け継ぐことは難しいですね。周辺は昔、杉や檜の産地でしたが今は残念ながら衰退しています。国産の材木・林業を復活させることができるといいですね。で、、、。春さんはこのちょうなでハツったりしているのですか?難しそう~。
返信削除hattoさん
返信削除明らかに、その一人は小川三夫さんですね(笑)。
手斧ではつって槍鉋で仕上げるのでしょうから、もしかしたら手斧はもっと使える人がいるけれど、槍鉋は二人くらいかもしれませんね。
小川さんのご本を読むと、高校を卒業するとき西岡さんに弟子にするのを断られ、いつか弟子にしてもらおうと、仏像(仏壇だったか?)を作るところに住み込んだりして、手斧の練習はしていたけれど、いざ弟子にしてもらって、現場に行ったらすぐに槍鉋を使わされた、というくだりがあります。手斧は練習したことがあったけれど、槍鉋は持ったこともない、見様見真似だっとというのですが、手斧も槍鉋もカンナと同じで「研ぐ」ということが、使うことと同様に大切なのではないかと察します。
先日お話しした海岸屋のTさん、その師匠のAさん、どちらもすごい人ですが、二人をよく知っている鍛冶屋の中屋さんによると、Aさんは建築現場だけでなく、自分の工房も、「これで使っているのかしら?」と疑うほどきれいで、いつ行っても隅々まで掃除が行き届いているそうです。ずっと昔にテレビでAさんの生活を見ましたが、夜、二時間ぐらいカンナを研いでいました。顕微鏡で見ないとわからないくらいのホツをとるためです。
私は、小ぶりで姿がいいという理由だけで手斧を買いました。使ったこともないので、先日写真を撮ろうと出してみたら刃が錆びかけていました。研ぐ気概がないんじゃぁ、とてもとても、使えませんよ(笑)。