2018年8月4日土曜日

『みんな忘れた』

今年の1月、『東京新聞』のシリーズ記事の「改憲の足音」の第一回目として、「絵を描く未来 奪った戦争ー異論封じた時代 学生の遺作が語る」という記事があり、野見山暁治先生がお元気なのを知りました。
野見山先生(野見山暁治さんとは、とても呼べません)は、1920年生まれ、今年98歳です。


野見山先生は、1970年代に戦没した画学生を訪ね歩いて、『祈りの画集 戦没画学生の記録』(日本放送出版協会)を出されていて、それがきっかけで、窪島誠一郎さんと知り合い、窪島さんが「無言館」をつくられて、その記事が新聞に掲載されていたのです。


その野見山先生が、今年5月に、エッセイ集、『みんな忘れた 記憶の中の人』(平凡社)を出されました。
有名な方、有名ではない方、野見山先生と交わった人たちとの交流をえがいたものです。
 

野見山先生は、1978年に初のエッセイ集『四百字のデッサン』を出されたとき、日本エッセイストクラブ賞を受賞されました。
その躍動する文の力に衝撃を受けた私は、『みんな忘れた』を読んで、またパンチを食らってしまいました。
野見山先生、すごい!
みんな忘れたどころか、古い話が、会ったこともない人たちが、あたかも目の前に今いるように見えます。
日本で一番すごい日本語、そう称賛してもし足りない気がします。


『みんな忘れた』に載っていたアトリエの写真、そうだ、野見山先生は絵もお書きになるんだったと改めて思うほど、文の力が強いのです。

最初のご本が『四百字のデッサン』でしたが、四百字が何を意味するか知る世代の方が少なくなりつつあります。本はすべて、その四百字を基準につくられていました。野見山先生はまだ、原稿用紙に書かれているのでしょうか。






4 件のコメント:

  1. 春姐さん足元にも寄れないお方が居られるのですね、
    今の時期になると「似非語り部」が登場する中驚きです。
     「ホー助・補充兵」と卑下されながら短期間の気球隊の
    私なんか吹っ飛んでしまうようなお方です。
     国全体が一定の方向に向かうとき
    好むと好まざるに関わらず従わない者は「非国民」の
    レッテルを貼られる時代でした。
    全てが国策ですね。
    私の独断と偏見で、、、、、。

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  2. 昭ちゃん

    野見山先生も応召されたのですが、病を得て福岡の療養所で終戦を迎えていらっしゃいます。友人はみんな死んだのに自分は死ななかったという思いが、全国の遺族の訪ね歩きにつながったようです。
    小柄で華奢、静かにお話しなさる紳士ですが、身体には熱い思いがみなぎっているようで、絵は力強く文は洒脱です。
    この本の中にも、赤松俊(のちに原爆の図を描いた丸木俊)の戦時中のあっけらかんとした反骨ぶりが書かれています。同じアパートに住んでいたのですって。

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  3. あれだけ騒いだ原発0や辺野古基地
    古くは炭鉱閉山・昭和42年
    全て国策です。

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  4. 昭ちゃん
    国家という単位がある以上、なかなか避けられませんね。
    地方自治が確立したり、個人も政治に日常的に参加する機運が出てくればいいのですが、「長いものに巻かれろ」気質は一朝一夕ではなくなりません。というか、どんどん目をつぶって、何事もやり過ごす風潮が出てきている気がします。

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