暮れからお正月にかけて読んだ、何冊かの本です。
11月に、『風と行く者』(上橋菜穂子著、偕成社、2018年)、「守り人シリーズ」の新刊が出ました。
実は昨年の秋、息子が、数年前に持って行っていた数冊の「守り人」を送り返してきたのを、つい手に取って読んだのが運の尽き、久しぶりに全巻(12巻!)読み返したばかりだったので、思いがけず続巻が出て、バルサの世界に続けて入ることができました。
私は、同じ本を何度も読み直すので、時間の浪費以外の何ものでもありません。でも、生きることも、時間の浪費と言えば浪費なので、他人よ笑わば笑え、これからも楽しく読み返すつもりです。
他にも、時折読み返したくなる本は、ローズマリ・サトクリフや、ル=グウィンなどです。
『乙嫁語り』(森薫著、ハルタコミックス、2018年)の11巻が12月に出ました。
相変わらずの、細部まで描き込んだ絵を楽しみました。
お正月明けに、お年賀といって、北海道ののらさんが送ってくれたのは、『ものづくりに生きる』(小関智弘著、岩波ジュニア新書、1999年)でした。
私が好きそうだから、と選んでくれたようでしたが、なるほどぴったり、あっという間に読んでしまいました。
旋盤工の古関さんが、おもに東京都大田区の町工場で働く、交流のあった職人さんや取材した職人さんについて書いた本です。
私など、到底見ることのできない世界、百万分の1ミリという単位で仕事をする世界、大工で言えば宮大工のような世界で、精密機械や大型機器の金型の、その金型や木型をつくる人の話、あるいは、一つ何百万円もするような金型を溶接で修理する人の話、絞ってつくるロケットの頭や、巨大レンズなどの制作秘話など、どんなに機械化が進んでも、最後の決め手は人であるということ、とても面白く読みました。
小さなネジの話も面白かった、今では機械化され、金属棒を切って成形するので、寸分たがわぬネジが量産されているはずですが、大田区の町工場のみんなで、自社でつくったネジを持ち寄り、それを混ぜてどれが自社のネジかを当てるとなると、全員が自社のネジを言い当てたというものです。つまり、出てはいけない個性まで出てしまう、それほど、機械を使いながらも、人の存在は大きいということでした。
また、名人ほど技を隠さないで、惜しみなく技術を後進に見せたり伝えたりすることなど、なるほど、なるほどと思いながら読みました。
古関さんがただのライターではなく、旋盤工であるが故の言葉の重みを感じる、とてもいい本でした。
正月明けに、益子の古道具+古書屋の「内町工場」で買ったのは、『バーナード・リーチ 日本絵日記』(講談社学術文庫、2002年)でした。
内町工場には、古道具の場所まで、古書が増殖していました。訊くと、暮れにたくさんの本の持ち込みがあったということ、大掃除をして、本を処分する気になった人がいっぱいいたに違いありません。こんなところにも、本離れが進んでいるのが見えて、ちょっと寂しい思いがしました。
『日本絵日記』は、バーナード・リーチが、もともとはイギリスの人に向けた、日本滞在記です。
1952年に、戦後では初来日したリーチは1年以上滞在し、柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎などとの旧交を温めながら、各地を巡って講演したり、焼きものを制作したりしています。驚くのはその各地での歓迎ぶりです。戦後7年、民藝運動は社会も工芸も混迷していた中で、そんなに盛り上がっていたのです。
日本人の価値の混乱や、手仕事と機械の大量生産との間の埋められない溝などについての記載がたくさんあります。職人は自信を持てず、氾濫する工業製品にはこれまで培われてきたものが何も入っていないのを、リーチは苦々しく見ています。
日本人の価値の混乱は、はっきりとは書いてありませんが、自信のなさからきているもの、西欧への劣等感によると考えているようでした。劣等感は、時には裏返されて、自信ありげに居直ったりします。近年の、「クールジャパン現象」のように、その劣等感は、現在でもまだまだ続いているようです。
戦後7、8年当時はこんなだったかと、認識を新たにできるのも面白いところでした。
ほとんどが木造の日本は、ロンドンと比べても戦火の爪痕が見られないほどに復興していますが、まだ道はほとんど舗装されていません。その舗装していない道に、バスや車があふれています。車が分解してしまいそうな高山の石ころ道を行ったり、混雑した車の間を人が平気で横切ったり、リーチはそのたびにハラハラしています。
また、景気を持ち直している日本のすぐそばでは、朝鮮戦争が激しく戦われていて、日本人も含めて世界中の誰もが第三に世界大戦を、避けられないものとして予感するような、緊迫した世相だったことがわかります。ちょっとした大きな音でも、誰もが、とうとう第三次世界大戦がはじまったかと考えたようでした。
必至と考えられた第三次世界大戦が回避できて本当によかったとは思いますが、限られた資源争いで世界は複雑にひずみ、あちこちに火種が飛び火して、今でも戦火に苦しんでいる人々がたくさんいます。
懐かしい話を有難う
返信削除山奥の寒村で見向きもされなかった小石原の奥にある
オンダ焼を紹介したのもリーチさんですね、
当時私も山登りの帰路「唐臼」や文様を楽しんでいました。
窯元の大田さんとも親しい中でその後労務課長が惚れ込んで
お呼びしての展示即売会が大盛況で今ある物は
当時の物で千円でリックに入りきれませんでした。
日本の陶芸ブームの先駆者ですね。
昭ちゃん
返信削除この本にはリーチが小鹿田に逗留した話も出てきます。裏山の土を掘って来たものを唐臼に入れておくと、水が砕いてくれる、釉薬もつくる、お金を使わなくても焼き物ができると絶賛しています。
私も学生のころ、小鹿田に行って、飾られていたリーチの絵つけしたお皿を見たような気がします。
今では陶芸を生業としている同級生と行ったので、小鹿田、小石原、柿右衛門、唐津焼、高取焼、いろんなところを訪ねました。郷土玩具をつくっている人のところも訪ねましたけどね(笑)。
さすが姐さん話題が広いやー
返信削除最近のラジオニュースでは博多人形の陶土も
他県からの物が無いと、、、、
メキシコも有名なのですか二代目が勉強に行きました。
(他の窯元ですが)
昭ちゃん
返信削除戦後、変な個人主義が入るなか、小鹿田は仲良く、個人を出さないで小鹿田で売っていったらしいです。
今も、水利用の唐臼を使っているのでしょうね。
水車とか唐臼とか、見ると嬉しくなります。
炭窯と同じように登り窯から立ちのぼる
返信削除煙は情緒がありますが、
大量生産になれば殆どが電気窯でしょー
唐臼は小鹿田の目玉だから少しはあるでしょーね。
昭ちゃん
返信削除2017年7月の九州北部豪雨によって、44基ある唐臼の6割以上が稼働不能となり、原材料となる松も入手困難、陶土は前年の熊本地震による被害からの復旧工事が始まる直前にがけ崩れを起こして採掘不能、保存していた陶土の多くも流出するという壊滅的な被害となったと書いてありました。復旧はどうなっているのでしょう?
でもいろいろ見ると、まだ共同の登り窯でやっているみたいですよ。健在でしょう!
今日は炭鉱のことをUPしました。見てやってください。