2019年5月31日金曜日

絵入りの染料ビン


染料ビンの中でも好きなのは、マツ染料のビンです。
松のエンボスの可愛さがたまりません。


すでに、マツ染料のビンは持っていたのですが、幸か不幸か中身入り、ラベルつきでした。
資料的にはその方が、情報が多くて面白い、でも松のエンボスもはっきり見たいと、中身入りのどちらかを空きビンにするつもりを、ずるずる引き延ばしていました。
よかった、空ビンが手に入ったので、中身入りはそのまま取っておけます。


こんなビンに入った染料を使ったら、捨てるかどうか、誰でも絶対迷ったと思います。

それにしても、あと一つとっても惹かれる染料のビンがあります。
千鳥のエンボスが入っているという、ちどり染のビンです。

ブログ「ボトルソウドウ」より

ちなみに、ちどりちどり染のビンはこんなビンです。
かわいいなぁ。









2019年5月30日木曜日

翻訳文庫本の表紙考

私はどちらかといえば本好きですが、読むだけでなく、本の姿かたちも含めて愛でる傾向にあります。だから、装丁の良さ悪さなどにもこだわります。
同じ内容の本でも、単行本の表紙と文庫本の表紙が違っていて、単行本の表紙の方が好きなときは、場所は取るし値段も高いのに、単行本を買ってしまうこともあります。

さて、翻訳ものだったら、その本が書かれた背景をよく知っている、原作の書かれた国の人が描いた絵が表紙や挿絵になっていることがベストですが、文庫本では、なかなかそんな本にはお目にかかれません。たいてい、日本人が描いた、日本人向けの絵が表紙を飾っています。


まずは、『ミセス・ポリファックス』(ドロシー・ギルマン著、柳沢由美子訳、集英社文庫)ジリーズです。
前にも書いていてしつこいのですが、改訂版の絵は、まったく物語の印象を台無しにしていて、残念です。この絵では、毎回生きるか死ぬかという場面に遭遇して、絶体絶命の中で機転を働かせて、奇跡的に生還するミセス・ポリファックスには、到底見えません。
第1巻(けっきょくkuskusさんにいただいたまま)も、イメージが違うと言えば違うのですが、まだましでした。


こちらは『ミセス・ポリファックス』シリーズのアメリカの本、とても雰囲気が出ています。
余談ですが、最近また、夜な夜な『ミセス・ポリファックス』シリーズを読んでいます。一冊だけにしておけばいいのに、一冊読めばついほかの巻にも手が伸びます。
どの巻もけっこうな長さ、時間の無駄遣いというか、人生の無駄遣いとはわかっているのですが、はらはら、どきどき、楽しんでいます。


『通い猫アルフィー』シリーズ(レイチェル・ウェルズ著、中西和美訳、ハーパーBOOKS、2015ー2018年)は、イギリス版『三毛猫ホームズ』シリーズといった感じの本です。
飼い主が亡くなって施設に送られそうになった猫のアルフィーは、逃げ出して旅をし、終の棲家となる住みやすい街を見つけ、そこで一人ぼっちになってしまうリスクを避けるため、複数の家庭を渡り歩く通い猫になります。
そして、その飼い主たちを知り合わせて、結婚させたり、マタニティーうつを直したり、飼い主たちが直面する「事件」を解決したりして、飼い主たちを幸せにします。
『通い猫アルフィー』シリーズの表紙は、いかにも日本人受けのしそうなぽっちゃりしたかわいい猫が描かれていますが、悪くありません。




で、原書の表紙を見ると、賢い猫アルフィーの賢さが、より出ているでしょうか?
こうやって比べて見ると、日本版の第4巻はイギリス版の第1巻の写真(イラスト?)をもとに描かれたものに見えて、できるだけ雰囲気を伝えたいと思って描いた感じが伝わってきます。


さて、古典ともいえる『赤毛のアン』の文庫本です。
何回もの引っ越しや、その後の片づけ方などで見えなくなった巻は、読みたくなったとき買い足しているので(きっとどこかに古いのも隠れていると思うけれど)、新しい装丁のものが混じっています。もっとも、新装版は表紙だけをつけ替えたのではなくて、文字を大きくしたりもしたのでしょう、ちょっと厚くなっています。右上と左下が新装版、左上と右下が古い版です。
古い版は、表紙絵作家として売れっ子だった人の絵ですが、ずっと内容と絵が違うという違和感がありました。
それに比べると、新装版はカナダのプリンスエドワード島あたりをより意識して描かれているのですが、図案化されすぎていて、薄いスープを飲んでいるようなもの足りなさも感じます。

というわけで、英語版を見てみました。
こちらは、変遷も激しいし、2010年代になって、何故かずいぶんリニューアルされていました。


上の写真のシリーズでは、1冊目の『Anne of Green Gables』は見つかりませんでした。1980年代に発行されたもので、古めかしいので、もう『Anne of Green Gables』は再販されていないのかもしれません。いかにもカントリーな感じを出そうとしていますが、アンの印象とは程遠いものに見えます。
次に、映像化(映画化?テレビドラマ化?)された写真を使用した表紙の本がいろいろ出版された時代がありました。


2010年代に入ると、カントリーの呪縛からも映像からも解放されて、もっと自由な表紙が出てきています。


しかし、右のペンギン版(2017年)なんか、ちょっと自由過ぎる気がします。


もの足りなさを補ってくれるのは、やっぱり『赤毛のアン』カラー完訳愛蔵版(モンゴメリ著、西田佳子訳、フェルナンデス・ジェイコブソン絵、西村書店、2006年)でしょうか。
原書は2000年にカナダのTundra Booksから出版され、1908年にボストンとロンドンで出版された初版原稿を忠実に使っています。
この本に関しては、ずっと前にブログでてっきり紹介したと思っていたので、ブログアーカイブを探してみたのですが、見つかりませんでした。


ローラ・フェルナンデス、リック・ジェイコブソン夫妻によるたくさんの挿絵は、読む人が持っているイメージをぶち壊すものではない、かえって膨らませてくれるような絵で、とても満足できるものです。
文庫本ではありませんが。








2019年5月29日水曜日

キルトの修理(2)


さて、合計で6日かかった、キルトの修理は終わっています。
幟(のぼり)だった布が擦り切れた部分、おもに目を、別の布でやり直しました。
修理したのは全部で何匹くらいだったか、目だけの直しで終わったのが10匹くらいいました。


片目は残っていたので片目だけ修理したら、あれあれ、片方の目が大きくなってしまったのもいます。
でも、片目がないよりましなので、よしとしました。


これは、直そうとした時点で破れていることに気づいていなかった猫ですが、全猫のうち最も深刻です。
というのは、いまは脚とお腹が破れているだけですが、じつは前垂れも含めて全部があの傷んでいた幟の布を使っています。そのうち、全体が擦り切れてしまうことでしょう。
根本的に直すなら、絣の台布ごと取り外して一からやり直し、またここにはめるしかありません。
しかし、刺繍はしてあるし、キルティングはしてあるし、丁寧に解いてこれをすべて直していたら、日曜日には終わらなかったでしょう。
今週まで持ち越す気はありませんでした。


というわけで、今回は破れた部分だけ直すことにしました。


キルト全体を動かすのは手間なので、あらかじめ縫い合わせられるところは縫い合わせておいてからはめ込みます。


これで、一年くらいは持ってくれるといいのだけれど。
台布と同じ絣が見つかったら、暇を見てまったく新しい招き猫をつくっておいて、それを入れ替えるのが一番簡単そうです。


さて、手間がかかりそうなので後回しにしていた猫です。
他の修理が片づいたとき、まだエネルギーが残っていたので、「ぶち」部分を簡単にしないで、元の姿に復元することにしました。


それにしても、後から気づきましたが、ネズミ色の布は取り換えるべきでした。
最初につくったときは、縫い合わせてから、布の厚みが出ないように下に隠れる布を切り取っています。つまり、そう太くない黒布の下では、白布とネズミ色の布が細い「縫い代」で重なり合っているのです。
それがずれてしまうと、白布もネズミ色布も縫い代が少なくなって、ほつれやすくなります。


顔ができたところで耳を縫います。赤い布に黒い布をかぶせて縫いつけ、


黒い布の内側を切り取って、「縁取り」になるように縫いつけます。


その上に顔をとじつけ、挙げている手もとじつけたら、残るは手と足の「ぶち」の部分です。


ここでも、ネズミ色の布と白布が重なるようにして、ちょうど重なったうえに黒布が来るようにするのに、ちょっと手間取りました。
白布を切り取ってなかったら、仕事はずっと楽だったでしょう。


それでも何とか完成しました。
2019年5月の大修復、これで一件落着です。






2019年5月28日火曜日

傷みやすい竹


先日、籠玉を竿から降ろしました。
そうっと、気をつけて降ろしたのだけれど、小さな玉を支えている竹ひごが2本折れてしまいました。そういえば、あげるときにも修理しました。
直してから仕舞うために、夫が直しやすいように、籠玉を庭に立てました。


長いひごを支えているひごを、薄くてしなやかなものから、太くて厚いものに替えます。
小さい玉は軽いものですが、風などで力がかかるのか、この飛び出している、小さい玉のついたひごと、それを支えているひごがダメになります。


支えは新しい竹に替えましたが、本体の長いひごはそのまま使います。


片づけ易いよう、全体をまとめて縛ろうとして、また2本折れてしまいました。
あぁぁ。
夫はそれも直したがりましたがきりがない、私は修理は来期に先送りすると主張、折れたものをそのまま玉に突き刺しておきました。竹がもろくなっていて、もとのように小さくまとめることはできません(左は真新しいときの写真)。
高いところに約2か月、降ろしているあいだも、雨ざらしではありませんが、外に置いてるということは、傷むということなのでしょう。
室内においた竹は強いけれど、室外に置いておくと、竹は本当に脆いものです。

私の知っている籠玉をあげていた家々、どこももう失われてしまっています。今年は新しい籠玉をあげた家は見ませんでした。


ところで、竹を留めている針金を外したり、新しく巻きつけて締めたりするために、ペンチを使っていたのですが、思いついて途中から剪定ばさみケースを使いました。
とっても便利でした。







2019年5月27日月曜日

エチオピアの杼

 

奥がコートジボワールのバウレの杼、手前がエチオピアのドルゼ(たぶん)の杼(ひ)、下は、エチオピアの筬(おさ)、どれも織物の道具です。


上から見ると、よく似た形をしています。


ところが横から見ると、厚みが全く違います。

MUDAIより

エチオピアの織り機は基本的には、幅広・水平の足踏み織り機です。 
そして、西アフリカのバウレは幅の狭い織り機を使います。

CIADより

エチオピアの、手織りのショールです。
ショールは、伝統的には木綿だけで織りましたが、現在は端の模様に、化繊の色糸を使っています。ショールはガーゼのような風合いを持っています。

alamyより

このショールは、暑さ寒さを調節するのに便利なものですが、

SDMより

とくにエチオピア正教徒には欠かせないものです。

gettyimagesより

エチオピアにはほかに、狭く織った毛織物があり、市場などでもよく見かけます。単なるお土産ものなのか、昔はつないで壁掛けだけでなく敷きものなどにもしていたのか、知りません。
木綿を織る人と毛を織る人は、確か民族グループが違っていたと思います。
木綿と羊毛では違う織り機や杼を使っているのかも知りません。

CIADより

これはエチオピアの、個人の家というより織物工場ですが、織り手が左手に持っているのは薄い杼に見えます。

alamyより

ところが、このエチオピアの織物風景では、はっきりとは見えませんが、杼がバウレのような厚みのある杼にも見えます。
エチオピアにも厚い杼もあるのでしょうか?


エチオピアの筬は、つくり方は、糸で絡めながら隙間の幅を一定につくるアジアの竹の筬と同じですが、ヨシのようなものでできています。
エチオピア南部には竹のある地域もありますが、場所は限られていて、筬にはしていません。ヨシは、竹のように薄く削ることはできないので、織り目の固く詰んだ布を織るのは、筬から規定されて、なかなか難しいと思われます。

アフリカに織物は、中東から陸路でもたらされ、大陸全土に広がりました(ナイジェリアの一部地域は、たぶん海路でもたらされている)。
それにしても、織物道具というものは、世界中よく似ているのに驚かされます。