『浮世絵にみる蚕織まにゅある かゐこやしなひ草』(編集委員会編集・監修、東京農工大学図書館発行、初版は2002年)は、2016年に再版され、東京農工大学科学博物館のミュージアムショップで販売されています。
総ページ数が165ページほど、三部からなっていて、第一部は、「かゐこやしなひ草」の「蚕織錦絵」の写真と、絵に書かれている文の解読と現代語訳、そして解説、第二部は「教草」、第三部が「鈴木コレクションと現代」の三部作になっています。
教草は、養蚕手びき草(こがいてびきぐさ)、生糸一覧、樟虫一覧(げんじきむしはクスサンのこと、テグスにする)、野繭一覧(やままゆ)、草綿一覧(きわた)、芋麻製法一覧(からむし)からなり、養蚕だけではなくほかの繊維のとり方も詳しく解説されています。
なお、これら第一部、第二部の「蚕織錦絵」のすべては、故鈴木三郎氏がコレクションを、東京農工大学工学部付属繊維博物館(当時)に寄贈されたもので、2008年に東京農工大学科学博物館と改名して以後は、同博物館の所蔵品となっているものです。
『浮世絵にみる蚕織まにゅある かゐこやしなひ草』はすばらしい本ですが、惜しむらくは、写真がちょっとぼやけていて、色も悪いことです。
ブログに転載するにあたって、ちょっとはっきりさせましたが、全体に色がくすんでいます。
本の中の写真。かゐこやしなひ草 第一 勝川春勝、1786年 |
夫の母が残した木版の『かゐこやしなひ草』と同じ、勝川春勝と北尾重政画(1786年)は、巻頭に載っていましたが、ちょっとはっきりしないでぼやけていました。
同上、母の遺した木版 |
もっとも、これだけの力作なのに本の値段は1000円、文句は言えませんが、ちょっとだけ残念です。
かゐこやしなひ草 第七 北尾重政、1786年 |
何種類かの『かゐこやしなひ草』が紹介されていますが、勝川春勝と北尾重政版の12葉が一番古いものだからか、それとも全部がそろっていたからか、それを使って解説してあります。
本を開くと、右ページに絵が、左ページに解説があります。
絵には必ず説明書きがついています。
それを左ページで解読し、現代語訳をつけています。
左ページ全体はこんな感じです。
かゐこやしなひ草 壱と三 喜多川歌麿、1794-1804年 |
蚕家織子之圖 第二 一勇斉國芳、1830年 |
これには、お手伝いしている子どもがたくさん登場します。当時の桑の木の太さにも、驚かされます。
蚕やしなひぐさ 五 六 一壽斎芳員、1816年 |
蚕やしなひ草 一鵬斎芳藤、1843年 |
この絵では、桶の中で桑の葉を刻む姿も面白いのですが、鳥のおもちゃが気になります。
ブンブン振り回すと音がする、こんなおもちゃだったに違いありません。
養蚕之全圖 芳藤、1883年 |
こちらは、展示されていたのと同じ絵のはずですが、
私が展示場で写したものとは何故か、プロポーションがちょっと違っていました。
蚕やしなひ草 國利、1895年 |
桑の葉を運ぶのに馬を使っています。
國利の絵は4枚紹介されていましたが、写真の中では一番線がはっきりしているものでした。
猫がいるのや、馬がいるのは、浮世絵ではありますが、明治維新(1868年)以後のものです。
かゐこやしなひぐさ 三、四。玉蘭斎貞秀画、1847年 |
あらさがしをするのもなんですが、かゐこやしなひ草を描くと、マニュアルとして飛ぶように売れたのか、実際の現場を見ずに描いた画家さんもいたようです。
この、「押し切り」を昨日のすごろくの、道具のいろいろの中にあった押し切りと比べて見てください。これでは、桑の葉は切ることができません。
実際に蚕を育てていた方たちは、大笑いしたことでしょう。
もしかしたら、『蚕家織子之圖』の桑の木もあんなに太いものではなかったのではないか、ちょっと疑ってしまいました。
絹の着物に袖を通すまでにどれだけ手間がかかっているのか…。
返信削除私は織ることも染めることもできませんし、ましてや蚕を飼うなんて!
それでも、「シルクはやっぱりいいわね…」とか言っちゃってますね。ウールもそうですが…有難く着ないと。
子供のおもちゃに目がいっちゃう春さん。大ウケです!
返信削除葉を切る道具は刃と木(?)が離れていては切れませんね(笑)。でも逆に、実際を知らずに描いていることがわかって面白いです。
解説本は本のプロが入っていないんでしょうか?原本の状態もよくなさそうですが、撮影がぼんやりだったり、やけに横に引き伸ばされたり、なにかと残念ですね。春さんがお持ちの本はとても状態がいいのがわかりました。
karatさん
返信削除絹だけでなく、木綿もそしてからむしや大麻などの麻、どれだけ手間がかかっているんだと気が遠くなってしまいます。
でも、そこは何とか労働を軽減したいという人間のこと、博物館には機械で一度にたくさん繰れる糸繰機とかいろいろありました。蚕も改良種がいろいろあって、繭がすごく大きいのもありました。
私も、私は絶対に着ない、母のものだった着物などを持っていますが、骨董的な価値があるわけではありません。糸は機械でつくってあるし、化学染料染め。でも、戦前のものとか、鮫小紋というのかしら、細かい型を使って手で染めたんじゃないのというのや、細かい絣などあります。いったいどうしたらいいでしょうね?
hiyocoさん
返信削除以前、hiyocoさんが教えてくれた情報に、偶然のようにして、やっとたどり着きましたね。
急に車で行くことになり、急に寄ってみることにしましたが、面白かったです。
そうそう、本は撮影のときからピントが合ってない感じの写真で、印刷も寝ぼけていました。原本の状態が悪いんじゃないと思います。でも、ネットで見ると、「養蚕・織の文献としても、また、美術本としても納得をいただけるものと思います」と書いてありました(笑)。
本は残念ながら美しくないのですが、内容は濃いものでした。
こうゆう絵は、籠とか道具とかおもちゃとかが楽しいんです(^^♪江戸から一歩も出てないひ弱な画家もいたんでしょうね(笑)。いろいろ旅した葛飾北斎は、やっぱりすごいです!
急がせた感が申し訳ありません��でも感動します
返信削除以前番組で蚕から細~い糸をスルスルと巻く?
工程に画面に釘付けになりましたが、凄いですね~
子供の頃祖父の家に蚕の棚が屋根裏っぽい所にありました、ふと思い出しました(笑)
今回も楽しく拝見しました。まにゅある、とカナで書いたのは何故なんでしょう?
返信削除さておき、お蚕浮世絵は当時のベストセラーだったのでしょうね。
今風に言えば、
『あなたもできる!稼げるお蚕』
みたいな感じでしょうか。どの絵の作業にも、ゆとり、豊かさが感じられ、手間に対する苦労みたいなものが感じられません。職人的なストイックな雰囲気もないし。出てくる女性が絵になる皆んな若い人ばかりだからでしょうか。
あかずきんさん
返信削除いえいえ、楽しくUPしました。
昔の蚕は一年に一度しか繭の採れないもの、貴族しか着られない貴重品でしたが、繭から糸をとるのは、庶民のからむしや麻などからとるのに比べれば、楽だったかもしれませんね。
そうか、養蚕と言えばなんとなく関東、東北をイメージしてしまいますが、九州の方というか、全国でやられていたのですね。この辺りにはまだ「桑畑跡」が残っているところもあるし、道端には畑から逃げ出したり、伐るのを逃れたりした桑の木が、点々と生えています。
でも、倉敷の私が小学生のとき友だちからもらって蚕を飼ったときは、近くに桑の木がなくて、木のある家(さして親しくない家)まで毎日もらいに行って大変でした。だんだん行きにくくなるし。桑畑は見たことがありませんでした。
繭をつくって、蛾になって卵を産みつけるまで飼ったのですが、桑の葉を貰いに行かなくてはならないのが面倒だし、2、3匹の蚕がいっぱい卵を産んだので、どうしようもなくて川に流してしまいました(涙)。
春になったら、蚕を飼っている人のところに見せてもらいに行ってみようかと思っています。
akemifujimaさん
返信削除なぜ、仮名で書いたのでしょうね?いわゆるマニュアルとはちょっと違うぞと、差別感を出したかったのかもしれません。
あまり知られてないけれど、蚕のやしなひ草は、浮世絵のたくさんの部分を占めていたようでした。しかし、飾って置くものではなかったので、状態がいいものは残っていなかったのかもしれません。
日本人がどんどん売ったり捨てたりした浮世絵は海外に流れたはずですが、美人画だけでなく、かゐこやしなひ草も渡ったのでしょうか?養蚕やほかの繊維の浮世絵を精力的に集めた鈴木三郎さんという人は、これらの絵をとても大切にしていたと書いてありました。
本当は、こんな美人さんばかりが優雅に働いていたのではないと思いますよ(笑)。でも、美人画仕立てにするというのが、浮世絵の決まりだったんじゃないですか。爺さん婆さんが養蚕している絵は、きっとないでしょう(爆)。
春さん、ありがとうございます。仮名で書くこと、いつか真似してみたいです。笑
返信削除浮世絵だけに、美人しか出てこないってことですか。なるほどです。今の時代はインスタが流行っているのと同様に本質より見栄えを求めるというのは、普遍な欲求なのですね…
追進、昭ちゃんが貴重な写真を送ってくださるそうです。春さんブログのご縁に感謝です。
あ、、追伸…
返信削除akemifujimaさん
返信削除浮世絵は嵩張らないし、情報が詰まっているしで、江戸に行った人や、江戸からほかの場所を訪ねる人の最高のお土産だったようです。
確かに、今海外のユーチューブを見たり、インスタを見たりする感覚だったのでしょうね。
どの時代にも好奇心があって、みんなアンテナを張っていてと思うと、面白いです(^^♪
あまり移動することは許されていなかったけれど、京都土産は何だったのかしら?伏見人形だったかもしれませんね。伏見人形は日本各地にもたらされて、その土地の土人形が生まれています。