2020年10月17日土曜日

喪輿の飾り

人の死というものをどうとらえるかは、いろいろな地域で異なっていますが、それは文化です。死にまつわって、祟りなどを恐れるのも、また文化です。
カンボジアの少数民族のお葬式で、お棺を掘った穴に納めてから、参加者全員で、お棺の上にお米を少しずつ撒いたことがありました。日本でもお墓参りをするとき、水とともにお米を供えます。お米文化圏では、死後もお米に困らないようにとは、当然考えられることなのでしょう。
これが、中国文化圏では紙銭になります。コロンブスが世界一周したとき、「中国では木を溶かしてつくったものを通貨として使っている」とびっくりした報告書を残していますが、さすが世界で最初のお札をつくった国だけあります。



さて、この鳥の木彫りは、朝鮮(韓国)のお葬式のとき、家から墓場までお棺を運ぶ喪輿(もこし、サンヨ)に飾りつけられたものです。
朝鮮には、いわゆる郷土玩具としての人形はほとんどありません。朝鮮では人形(ひとがた)は、近年まで子どものおもちゃや、成長を願う飾りものなどではなく、死者を慰めるだけのものでした。1910年に、日本の植民地下に入ってから、土産物として農民美術人形などがつくられる(つくらされた?)ようになりましたが。

木人博物館より

朝鮮にはこんな木彫りの人形がありますが、すべて、喪輿に飾ったり、若くして死んでしまった人を慰めたりしたものです。

木人博物館より

朝鮮では、若くして死んだ人は祟ると考えられていました。そのため、霊を慰めるため人形をつくりました。
若くして死んだ人については、昔読んだ本(あるいは大学の朝鮮文化の講義だったか?)に、面白い記述がありました。祟ったり、寂しがったりしないように、似た年頃の伴侶(死んだ人)を探し出して、死後結婚を執り行うというものです。祟りを恐れるというより、哀れに思う心が大きかったのでしょう。
また、若くして死んだ人が寂しくないようにと、人がたくさん行きかう道路の交わる場所を、一夜で掘って、道路の下に遺体を埋めるということも行われていたようです。かつては、舗装するなど道路の改修工事をすると、そうやって埋められた人の骨が、十字路からよく出てきたそうです。

山清の全州「崔氏」の喪輿、1856年制作 

これは、文化財にもなっているお金持ちの喪輿ですが、木彫りの人形たちは、このように賑々しく飾られました。

ロッテワールド民俗博物館の展示より

そして、お棺を納めた喪輿は、たくさんの人たちの手で担がれ、墓地へと運ばれて行きました。


さて、韓国に行く用があるとき、時間を取って骨董街仁寺洞(インサドン)に行くのが楽しみでしたが、一軒の店で、珍しく木彫りの猫を見つけたことがありました。
値段を訊くとかなりの高額でしたが、骨董屋の不愛想なおやじさんに、
「これは李朝のもの。お目が高い!」
と目を見張られ、一期一会と思い(思いやすい!)、買ってしまったものです。底に釘跡もないので、喪輿の装飾ではなかったと思われますが、ではどう使われていたのか、朝鮮のおもちゃ事情に詳しくないので、さっぱりわかりません。

世界のどこでも、かつて人形は死者とともにあるものでした。日本にも埴輪などがありましたが、江戸時代のころから、お節句に飾られたり、病気治癒を願って枕元に置かれたりと、子の成長を願うものに変化しています。


それにしても、かわいい鳥たちです。







2 件のコメント:

  1.  春姐さん冠婚葬祭こそ各地で異なる時代がありましたね、炭鉱でも野辺の送りの名残りで担ぐ長い飾り棹が
    車なので玄関に、茶わんも割ります。

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  2. 昭ちゃん
    カンボジア北部の少数民族の人たち、大きな木を伐って中を刳り抜いて棺桶をつくります。彼らは森と共に生きているので、家を建てるにも小さい木を使って森を守り、大木を伐るのは棺桶をつくるときだけです。
    それに死人を安置して広場に置き、生き返らないように数人が棺桶の上に座ります。そしてほかの人たちはその周りに輪になって、歌いながら一晩中歩いて弔いをします。
    次の朝、男たちがその丸太を刳り抜いた重い棺桶を担ぎ、そこは山の上ですがいつもより緩やかな道を走って墓場まで行きます。途中、一回でも降ろしたら禍が起こるので重いのに降ろせません。
    残念ながら無医県だったので、産後の肥立ちが悪かったりして、あっけなく死んでいきました。

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