『木地山のふるさと』(橘文策著、未来社刊、1963年)は、こけしの一蒐集家であった橘文策さんが、こけしの村に通ううち、こけしをつくる生地屋に関心を持ち、生地屋の歴史や暮らしを足で調べて書いた本で、古文書や聞き書きを駆使し、奥の深い本となっています。
章立ても、マニアックです。
生地屋のふるさと
蛭谷文書に見る生地屋の生活
古代の近江と轆轤師
轆轤の変遷
生地屋の女
遠刈田新地の民俗
三川の木地屋
東美濃の木地屋
佐治谷紀行
東北地方木地屋の用語
全編を読んでわかってくるのは、9世紀から千年以上に及ぶ木地屋の全貌です。
全国に点々とある木地屋の村の工人(職人)たちは、元をたどればすべて近江から出た人々で、世襲を続けながら、技術を守ってきました。今では轆轤仕事は動力に電気を用いていますが、かつてはすべて人力でした。そのため、工人たちは生地の手に入りやすい山奥に住みました。
目次に「木地屋の女」という章がありますが、木地屋の女房には木地屋の娘がなったことが書かれています。木地屋の女房は、轆轤を回す手伝いだけでなく、山奥に住むため、土地を切り開いて雑穀や野菜を植えて育てたり、キノコをはじめとして食べられる山菜を採ってくるなど食糧を確保し、生存のためのすべてを担ったうえ、雪深い冬ともなればできたものを温泉地や木賃宿などを廻って売りさばく裁量も持ち合わせた女たちで、とても農民の娘では務まらなかったそうです。
この本に寄せた渋沢敬三の序文で、本書の一端を知ることができるので、長いけれど全文載せてみます。
序 渋沢敬三
木地屋について三十余年の長い間関心を持ちつづけて来た橘さんの書物が出版せられることになったのはほんとに喜びにたえない。橘さんはそのはじめコケシの美しさに心をうたれ、コケシをつくる人たちに関心をもち、昭和七年東北地方をおとずれて以来、何回か木地屋の村をおとずれ、また本山である近江の東小椋村をたずねて研究をすすめられた。
橘さんの関心はその間にコケシの美しさから、これをつくる人びとの素朴な誠実さ、その誠実さを失わないで木地屋をさせている伝統的な誇ともいうべきものと、その誇の由来をさぐることへとだんだん深まっていってついに木地屋の歴史学的民俗学的な追及をつづけられるにいたった。
その間に大きな戦争があり、橘さんも満州にゆかれたりなどして中絶の時期があったが橘さんの研究は人と人の深いつながりにたっていたから、戦後木地屋の人たちとの手紙の往復から、また戦前の関係がよみがえり、ただ過去をなつかしむだけでなく、いよいよ研究は深まり、ついに調査される人びとからすすめられて、この書が公刊される運びになったという。
そうした人と人のつながりのあたたかさが、行間にあふれているのがこの書物の大きな特色といえるとともに木地屋について、一通りのことを知り得ることに特色がある。
木地屋について最初に注意ぶかい眼を向けられたのは柳田國男先生で、雑誌「史学」(大正一四年五月)に「資料としての伝説」と題して木地屋の変遷について述べられた。これに答えたような形で、牧野信之助氏が「歴史と地理」(昭和二年一二月)に「所謂木地屋根本地の史料」を発表し、ようやく世人の関心をよぶようになったのであった。それと前後して東北地方でコケシを蒐集している人たちの間で、生地屋の事を問題にするものが出はじめたが、その中でもっとも本格的に木地屋の学問的調査にとりくんだお一人が橘氏だった。
戦後旧来の木地屋の技術伝承など次第にほろびつつある有様に対して、文化財保護委員会でも調査記録の必要を感じ、各地に残存する木地屋の文書資料、技術伝承などの記録作成して来、また橋本鉄男氏によって木地屋の全国的な移動分布の研究もすすめられ、漸くその全貌があきらかになろうとしているとき、この書がでることになったのはまことに時宣を得ていると思う。この書はもっとも要領よくまとめられていて、木地屋の全貌について知らしめてくれるとともに、前記のようなさらにこまかな研究への橋渡しをする役目も果たすであろう。それはこの書を読むものに木地屋に対して深い関心を持たせるばかりでなく、各自がこうした世界にふれてみたい希望を抱くにいたるであろうと思うからである。
事実木地屋は高い文化を持っていたし、また文化のにない手でもあった。日本の古代にあっては液体容器は主として土器を用いたが、平安、鎌倉時代には木器が多く用いられるようになり、それが陶器が盛んに用いられるにいたるまでつづく。これは良質の鉄を産出したことも原因しているが、何よりも木地物に適した木材の多かったことによる。大陸でも漢代までは樹木が多く、木地物の発達を見ていたが、それ以後樹木が減少し、したがって木器の用いられることは少なくなった。しかし日本の場合は木器時代ともいうべきものが長くつづいた。これは一つには漆による加工、すなわち塗漆の技術と深く結びついたことにもある。岩手県二戸郡の浄法寺塗の木地など、よくこれほどまでに薄く挽いたものだとおどろくほどだが、その生地を生かす漆器の技術があったことを忘れてはならない。
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浄法寺塗
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こうして木地屋のつくった食器類は常民の生活に深く浸透したのであるが、これをつくった人びとの生活を理解するものはすくなかった。それはこの人びとが材料を入手しやすいところに住居をもとめる関係から多く山奥に住み、また移動を事としたためである。つまり一般常民はその恩恵にあずかりつつ、その人びとに接触することなしにすぎて来たのである。むしろ世人は木地屋を警戒し、また伝説的な社会と考えているものすら多かった。
だが本書をよむことによって多くの疑点がはれるとともに、人びとが一般常民の文化向上のためにはたした役割もあきらかになって、その功績の感謝の念をもちつつ民衆の歴史の上にこの人びとの登場していただける喜びを持つであろう。
昭和三十八年六月二十八日
確かに、この本がなければ、木地屋の実態は知られないままで忘れ去られた可能性があります。
上の2枚は、『木地屋のふるさと』に挿入されている、木地屋の住んだ小屋のスケッチです。
ほとんど知られてないことですが、山中生活者、船上生活者など、土地を所有する生活を良しとはしなかった人々は、日本につい最近までたくさんいました。
1960年代には、ほとんどの木地屋さんたちは、『木地屋のふるさと』に書かれたような山奥ではなく、里に下りてきて電動轆轤を使って仕事をしていました。
私が学生時代に友人と東北各県を旅行したとき手に入れた、鳴子の伊藤松三郎さんのこけし(右奥)は、当時としては珍しかった足踏みの轆轤でつくられたものです。友人連れで、限られた旅程の中で、山奥に住んでいらっしゃった伊藤松三郎さんの家までお伺いすることはできませんでしたが。
戦後から1960年代までは、椀や盆に加えて手軽なおもちゃがたくさんつくられた時代でした。生活が安定し、旅行なども増えた時代、お土産ものや小さな創作こけしは、どこででも目にしたものでした。
木地屋さんたちが最後の花を咲かせた時代でもあったでしょうか。
やがて木地仕事は、プラスティックの椀や盆、おもちゃやお土産ものに取って代わられてしまいました。
さて、『木地屋のふるさと』の序文の中で、渋沢敬三さんがちょっと触れていますが、木地屋と鉄は深い関係にありました。
『塩の道』(宮本常一著、講談社学術文庫、1985年)を読むと、何故近江が木地屋のふるさとなのか、よくわかります。
木地屋のノミはとても精巧なもので、刃が鋭く、しかも刃こぼれしないものでないとうまく削れないのですが、そのいいノミの材料のマンガンを含んだ鉄が、近江で採れたというのです。それゆえ、よいノミを手にした近江の木地屋が全国に広がり、各地で椀や盆をつくりました。
宮本常一さんは『塩の道』で、かつてたくさんいた非定住者たちは、必ずしも根拠地にそれほど密接に結びついていないのに、木地屋だけは全部、滋賀県永源寺町筒井と君ヶ畑の両方のお宮に結びついている、それは鉄が関係していたのではないかと書かれています。要するに、近江から出る鉄でないと、木地屋のあの椀をつくれなかったのではないか、鉄の供給者と絶えず連絡を取っていなければ、木地屋がよい仕事をできなかったのではないかと推察しているのです。
塩づくりには、鉄(煮詰める鉄釜、あるいは石釜をつくるノミ)と木(薪)が欠かせなかった、そして木地屋にも鉄(ノミ)と木(材料)が欠かせなかった、そしてその鉄をつくるにも、燃料としての木が欠かせなかったのです。
どうやって日本人の生活が成り立っていたか、あまりにも知らない部分が多いことに、これらの本を読むと、ちょっと驚いてしまいます。
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祖母の家にあったお平椀。寄合のためどの家でも20客くらい常備していた。
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余談ですが、『塩の道』のなか、塩に関する記述は6章の中の1章だけです。
塩が生活にどれほど大切だったか、そしてどうつくられ、どう運ばれたかはわかりましたが、全国にあった塩の道について、もっと知りたいものだと思っています。