私の最初に入院したところは、「救命救急センター(救命病棟)」という、ものものしい名前の部屋でした。
入り口を入ると、幅が4間(約8メートル)以上、奥行きはその何倍もある、だだっ広い部屋のような廊下(以下、廊下部屋)になっていて、その両側にベッドが4床ずつ入る大きな病屋が5つ、個室が3つ、お医者さんたちのコンピューター室、そのほかのユティリティーがあり、廊下部屋の突き当りが、間仕切りのない、いわゆる集中治療室になっていて、背の高いベッドが10床ほどありました。また、集中治療室の左側には、制御室や検査室なのか、部屋がありました。
これらの様子は、入院2日目からはじまった歩行訓練で、点滴を吊り下げている滑車のついた点滴台を押して、廊下部屋の真ん中あたりを歩きながら垣間見たのですが、病室として区切られている部分も含めて全体が集中治療室、重体でない者は区切られた病室に入れておくという感じでした。
4床を持った病室は4つ使われていて女性用は1室だけ、各室2人から3人いました。個室は1室だけ稼働、むき出しの集中治療ベッドには、あまり近づかなかったのですが、3人くらいいるようでした。各病室の入り口は大きく開かれていて、ベッドごとにカーテンはありましたが、ほぼいつも開け放たれていて、すべてが見渡せました。
不思議なのは、こんな大きな部屋なのにお手洗いが1つしかないことと、そして鏡がどこにもないことでした。車椅子であろうが、歩いてであろうが、お手洗いに行けるような人はあまりいないし、顔を損傷した人もいるかもしれない、鏡を見る必要がないということだったのでしょう。
大きい、廊下状の空間に、昼はとくにお医者さんや看護師さんが溢れていました。結構な人数で、あちこちで立ったまま打ち合わせもしています。ときおり見かける、背中にマークのついたユニフォームを着ているお医者さんは、ドクターヘリに乗るお医者さんとお見受けしました。
お医者さんたちが朝夕、回診に来てくれるときは、いつも5人、7人と連れ立ってくるので、どなたが主治医であるのか、とうとうわからずじまいでした。だいたい、30代、40代で、ここでは年配のお医者さんや看護師さんは、ほとんど見かけませんでした。
看護師さんは、昼間、夜、そして早朝と3交代でした。夜担当の人数が一番少なく、しかし勤務時間が一番長いようでした。昼間は、患者1人に看護師さん1人ついてくれて、いつも病室のすぐ外のデスクに控えていて、ナースコールをすると、間髪を入れず来てくれました。
心電図をとる機械入れの袋 |
看護師さんたちは毎日身体を拭いてくれたし、とてもよくやってくれましたが、お腹の大きい看護師さんは、特に親切でした。
「今日は髪を洗いましょう」
と、言ってたぶん自主的に、ベッドに寝たままで髪を洗ってくれ、それまで普通の点滴台を押して歩いていたのですが、歩きにくいだろうからと手すりのついた歩行向きの点滴台を探してきて交換してくれ、心電図をとっている機械(小さめのお弁当箱くらいの大きさ)を手に持って歩いていたのですが、それを入れて点滴台の手すりにぶら下げるための袋をつくってくれたりしました。
担当は一日限り、日をまたいで同じ看護師さんの担当はありませんでした。
入院最初の夜は、看護師さんではなくお医者さんが私の担当でした。
自分でベッドから起き上がることも、また横になることもできませんでしたから、お手洗いに行くときの介助は、すべてそのお医者さんにやっていただきました。1時間に100ccという点滴をしていますから、頻繁にお手洗いに行きたくなるのです。
また、うっ血を防ぐためらしい脚袋を装着することになり、それもやっていただいていると、看護師さんがやってきて、
「先生、それは私がやりますから」
と言ったのですが、
「いい、いい」
と言って、お医者さんがやってくれました。
私以後、新入りの人が2人いましたが、どちらも胸の怪我とかではなかったみたいで、夜にお医者さんがつくことはありませんでした。
夜は眠れたものではありませんでした。
救急車の音がひっきりなしに鳴り続けた夜もあれば、ナースコールの音だけでなく、おもちゃのラッパを吹いているような、かん高いけれど間延びした音が、鳴り続けた夜もありました。あの音は何かと考えたのですが、のんびりした音色に反して、緊急事態発生の合図だったような気がします。
寝返りが打てないのは、辛いことです。
眠れず、それでも浅い眠りが訪れたときは決まって、何かのピースを並べているような、セピア色の夢を見ました。そして、起きたときは、あそこはこう並べればよかったなどと思って、ふと我にかえったりしました。夢と現実が交互にきて、胸が重い、背中が痛い、でも身体は動かすことができない、という状態が3夜ほど続きました。
それ以後も、寝苦しいことに変わりはありませんでしたが、「いつもの夢」はなくなり、途切れ途切れではありましたが、普通の眠りになっていきました。
コロナ下、患者さん以外は病室には入れないのですが、お医者さんに導かれて家族と見られる人たちが入ってきたことがあります。そして出て行って、また入ってきて。
その日、夜の9時過ぎに、また昼間の人たちが入ってきたので、誰か集中治療ベッドの方が亡くなられたに違いないと思いました。その前に、おもちゃのラッパの音もしていました。
ぼんやり薄目を開けて見ていると、看護師さんがあわててやってきて、いつもは閉めない廊下側のカーテンを全部閉めたので、予想は確信に変わりました。しばらくして台車(?)のきしむ音が聞こえました。
看護師さんは明らかに隠したのですが、わかりやすい。わりとすぐにカーテンは、また開け放たれました。
救命病棟で3泊した私は、毎朝採血されていました。血液検査の結果、ちょっと高かった筋肉圧(CXとか言ったかな?筋肉が裂傷すると上がる)の値が下がり、心電図も安定したので、一般病棟に移されました。
最新の一般病棟は、まるでホテルのような佇まいでした。
ベッドの周りのカーテンは閉めっぱなしてプライバシーが確保され、病室の入り口にある洗面所にもお手洗いにも鏡がついていて(新鮮!)、カードでテレビも見られました。病室と病室の間の廊下は細く(あたりまえですが)、ほとんど人影もなく、ひっそりしていました。
救命病棟にいたころ、身体には筋肉圧を下げるための点滴の管がついており、心電図も、小さな機械をつないで常時とっていて、酸素量もとっていましたが、しっかり動くことを奨励されてもいました。
「一人で行ってみる?」
と言われて、点滴台と心電図の機械とともに、一人で行けるようになっていました。その点滴も心電図も終わり、一般病棟に移ったときには、身体に何もついていませんでした。
自分だけでお手洗いに行くことができるようになっていたのですが、移動した日とその夜は、動くときは必ず看護師さんを呼ぶことが義務づけられました。ところが、一般病棟では看護師さんの数が圧倒的に少ないので、来るのが遅い!ナースコールをしてもなかなか来ないので勝手に部屋を出て、お手洗いの前で待ったり、用を足してからも済んだというブザーを押さなくてはならないのだけれど、これも押してもなかなか来ないので、待ちきれなくて勝手に帰ろうとして、叱られたりました。看護師さんたちの年齢は、救命病棟の人たちより高いようでした。また、毎日担当もつきましたが、救命病棟のように一人が一人を担当するのではなく、当たり前ですが一人で何十人も担当しているようでした。
一般病棟は、5階だからか、窓のつくりが違うからか、夜は恐ろしく静かでした。
昼間はテレビを観て(病人には最高)、ときには本も読んで、予約しておくと自分で風呂場に行ってシャワーをあびることもできました。最初は、ちょっと動くだけで息が上がって、歩行訓練で階段を上って降りたときなどは、はぁはぁと肩で息をしていましたが、だんだん楽になっていきました。
長く、あくびも深呼吸もできませんでしたが、退院する前の晩、やっとあくびができるようになり、深く息を吸うこともできるようになりました。まっ、咳やくしゃみは今でも胸に響きますが。
朝晩は救命病棟のお医者さんたちが、群れを成して回診にやってきてくれて、懐かしい思いをしました。濃い紺の制服を着た彼らは、お医者さんというより「にいちゃん軍団」とか、「5レンジャーか?7レンジャーか?」と呼ぶ方がふさわしい。それに比べて、一般病棟に移ってからはじまった「整形外科」のお医者さんたちの回診は、一人のメインのお医者さんとその他随行している人といった感じで、普通でした。
しばらくは、経過を外来で診てもらうことになりましたが、やがては、例えばこのまま血圧が下がらないなどということになったら、地域のお医者さんに診てもらうようにと、なんと紹介状だけでなく、私の病状をすっかり記録したCDロムをいただきました。
医療はすごく進歩しているなぁ、と実感した1週間でした。
ブログの更新が無かった9日間、どれだけの方々がヤキモキしていたことでしょうか。
返信削除事故当日の状況を想像するだけで涙が出ました(年齢と共に涙もろく・・・)。
不思議なことに、ご家族に何かあったのではと思いましたが、春さんご自身がとは思い至らなかったのです。
これは言っても良いでしょうか?「春さんも屋根から落ちる」自戒も込めて。
入院中の病院の様子を冷静に見ている春さん「転んでもただでは起きない」。
ご退院おめでとうございました😌
返信削除どうぞお大事にしてください😌
reiさん
返信削除ありがとうございます。
病院は、痛いのを除けば観察に値する場所でした(笑)。
両足骨折しているというのに、お医者さんに排便の大変さと耳鳴りのことしか訴えない人。1日2日排便しなくても、大丈夫なのに。この、散歩中に池に転げ落ちて両足骨折した方は、毎回13種類の薬を飲んでいるだけでも驚きですが、その薬の名前、色など覚えて説明しているのにびっくりしました。どこか、バランスが悪くなっているのでしょうね。
すぐベッドを抜け出そうとしたり、点滴の管を抜こうとしていた80代後半の人もいました。夜はベッドにベルトで固定され、綿のいっぱい入ったミトンをはかされて、「助けて」と騒いでいました。固定されるとパニックになってしまう気持ちも、看護師さんの気持ちもわかります。この人は転んだらしいのですが、「来るところが違ったよね」ということで、早々にどこかに移されていきました(笑)。
さっき、屋根の上でも滑らない靴というのを注文しました。これで大丈夫だと思います。もちろん、用心しますが。
匿名さん
返信削除ありがとうございます。
無理しないで早く元通りになるよう、頑張ります。
こんにちは。
返信削除たった数日いただけで病棟の内部をそこまで詳細に把握できるなんてすごいですね。
さては情報部関係の方でしょう。隠しても僕の目はごまかせませんよ。
かねぽんさん
返信削除ははは、ひまの産物です(笑)。
最初のうちは何するのもおっくうですから、みんなの声に聞き耳を立てるくらいしかないじゃないですか(笑)。というか、聞こえてくるんです。
病院はとってもありがたいところ、でもそこから出たらとっても開放感があるところ、お世話になりました(^^♪
救命救急の様子、とっても興味深いです。
返信削除ところで、スマホ壊れちゃったんですよね?病院の写真、旦那さんにカメラ持ってきてもらったんですか(笑)?
hiyocoさん
返信削除さすが推理王ですね。隅に置けません(笑)。
スマホは壊れた日に修理に出しました。約3000円で10日くらいでなおるということ、台車ならぬ台スマホを貸してもらって、それを持って病院にいました。
何をするにも新たにアプリを入れなくてはならないので使い道は限られていましたが、普段もラジコで使っているだけ(笑)、でも電話連絡には使えました。
その台スマホで撮ったらワイド画面でしたが、まったくスマホ任せでした(笑)。
ちなみに、病室で電話は使えず、電話室に入って使いましたが、一般病棟で相部屋になった二人目の人、家族にだけではなくガンガン電話していました(笑)。でも、その人は脚を怪我して歩けないし、お見舞いの人が何度も来てると思えば気にならない、全然平気でした。
当然ですが救急車は結構ゆれますよ、
返信削除怪我の場合は苦痛でしょう。
hiyocoさん
返信削除台車ではなくて代車、代スマホでした。
昭ちゃん
返信削除ところがね、昭ちゃん、揺れる苦痛はありませんでした。
私、梯子とともに倒れたときと今回、2度も救急車に乗せていただきましたが、まず体は板状の担架に縛り付けられます。そして首の損傷を恐れて、顎のところをがっちり固定されるので、揺れるとしても全体、だから響かないのだと思います。担架を例えば救急車からドクターヘリに移して置いたとき、ちょっと背中に振動があったでしょうか。
前回は意識がはっきりしていて、受け入れの病院を決めるまでのやり取りがそれなりの時間がかかったのを覚えています。でも、今回はちょっと朦朧だったかな。時間の感覚もそうありませんでしたが、夫が私に気づいて連絡して、すぐに救急車が来て、車で5分くらいの運動公園に着いたら、もうヘリコプターがいたというのですからとても敏速だったようです。ちなみに、その病院まで車だと40分くらいかかります。
春さん、本当にお帰りなさい♪
返信削除本当に良かったです。
コロナで医療危機と言われ続けてきてましたが、春さんが迅速にケアを受けられて良かったと思いました。
ドクターヘリ、ありがとう。
akemifさん
返信削除病院についたとき、病棟に入るとき、退院するとき、3度もPCR検査をされました。しかも、鼻と喉と両方で。
病院の方たちは大変ですね。でもお腹の大きい看護婦さんが2人もいて、癒されました。働きやすい職場ではないかなと思いました。
3度ですか。下界では考えられない頻度ですね。
削除同僚の奥様が看護師なんですが、看護部長から
(妊娠は)今年は誰さんと誰さんね、的なお言葉があるとかと聞いてます。
もっと懐の大きな社会になれないのかな…って思います。
akemifさん
返信削除えぇぇ、妊娠まで管理されるなんて、世知辛いですね。
一般病棟は明らかに人手が足りないかな、夜とかはあちこちで呼ばれて看護師さんは大変そうでした。
それでも彼らの働きがあればこそ、ありがたかったです。