2024年1月31日水曜日
ひざ掛けが完成しました!
あのひざ掛けが、編み上がりました。
あきれるほどの時間をかけて、しかも不ぞろいの毛糸で、思い出したときに編んだので、大きいのや小さいのがあって、でこぼこと曲がっています。
編み始めたのは2014年、なんと10年も前のことでした。
かぎ針編みの常で、端がねじれたりしているので、織り物のように、お湯とアイロンで仕上げをしてみることにしました。
40度のお湯に浸し、60度まで温度を上げ、そのまま40度ほどに冷まして、軽く脱水してアイロンを当てます。
ところが、しまった!
ほかのことをしていて、気づいたらお湯が80度に上がっていました。焦って水を足したりして、長く浸しておくことも忘れて、早々にアイロンをかけてしまいました。
織り物だと、仕上げの過程で1本1本独立している糸を、絡めあって布に変貌させるのですが、編み物だとそうはいきません。
アイロンで伸ばしたり、縮めたりしたら、一応形はよくなって平らにもなりましたが、完全に乾くと、どうなるでしょう?
2024年1月30日火曜日
ヤブルンジャー
猫たちが小さいとき、手漉き紙を貼ったダクトを爪でひっかいて、ボロボロにしていました。
玄関ホールに立つダクトは、屋根の上のガラス箱の中で暖まった空気を床下の空間に降ろして床下の蓄熱板(コンクリート)を暖め、それで部屋を暖める、OMソーラーのダクトです。
爪砥ぎもいたずらも、大人になって少しは収まったかと思い、昨年暮れに新しく紙を貼りなおしたのですが、また、楽しく遊ばれてしまいました。
ダクトはそれでも、貼り換えやすいので、破られてもこちらも心の余裕がありますが、障子は破られたら困ります。畳屋さんに貼り替えてもらったので、お金もかかっていますし、破られたらすぐに貼りなおす元気はありません。
今のところ破られていませんが、昨日、私がこの辺りにいたら2匹でやってきて、障子の横の柱でおもむろに爪を砥ごうとしたので、慌ててそこを離れました。
爪とぎも置いてあるのに一度も使っているのを見たことがありません。専用爪とぎに振りかけたマタタビの粉も効果なく、家じゅうの柱はガサガサになっています。
マルはあまり派手には爪を砥がないのですが。
2024年1月29日月曜日
織機に経糸をかけるための準備
しばらく前に、今年初めての織物の集まりをしました。ところが何てこと、私は日にちではなく勘違いの曜日で覚えていて、集まる日にはのんびりほかのことをしていて、連絡をもらって、慌てて駆けつけました。
ということで、自分の大荷物は持っても行かなかったので、Kさんの整経に集中です。
紡いだ糸は太い細いがあるので、偏らないように、順番に並べてバランスよく混ぜて整経します。太い細いは、重さと長さを記しておくので、それから割り出します。といっても、糸紡ぎ歴の長いKさんの糸は、私の糸のようにばらつきがほとんどありません。
近藤さんの猫のくりちゃんは、7人の方たちが手分けして餌やりをしてくださっていて、元気に暮らしています。
糸はかせのままでは扱えないので、符割りにかせを掛け、糸巻に巻き取ります。
3かせほどつないで巻き取った糸巻には、太いか細いか中くらいか、ラベルをつけて置きます。
経糸の長さにしたガイドの糸を整経台に張って、ちょうどいい長さで一周できるよう、糸の掛け方を換えたり、杭を差し込む場所を換えたりします。Kさんの場合、経糸の長さは180センチです。
この整経台を使っての整経は、Kさんも私も一度しかやったことがありませんでした。そして、自分がやったときは夢中でノートにも書き留めてなかったので、卒業生のOさんに来ていただいて、本当に助かりました。
余談ですが、元学校の先生だったOさんは、ノートの取り方が超上手です。きれいな字で絵入りのノートは美しい! そっくりコピーさせてもらいたいほどでした。
以前、私が朝顔形のガス台で、火の出るところが二重になっているものの、どちらのつまみが内側でどちらが外側かと悩んでいた時(マッチで点火するのだけれど、大きい鍋を乗せているし、ボッとなるので、結構火をつけるのが怖いガス台)、Oさんが「どれどれ」とノートを広げると、ノートの端に囲みがあり、絵が描いてあるのを見せて、
「右のつまみが外側の火だから」
と、教えてくれて、助かったこともありました。
Kさんの経糸は赤2本、オリーブ1本の繰り返しなので、どう整経するか考えどころでした。整経は1本どりでもできますが、時間がかかります。結局、赤は2本どり、オリーブは1本どりにして、交互に整経しました。
糸巻に巻いた糸は、高いところのヒートンを通します。
糸巻は太い細いを交互に、しかし端には太いのが来るように、順序よく並べておきます。
経糸が200本強になるので、約50本ずつ4回に分けて整経します。
経糸を整経するとき、「綾を取る」という作業は必然です。綾を取っておけば、糸が順序よく並んで、もつれたりすることがありません。
整経が終わったら、切り離すところの両端をしっかり結んで、杭の脇で糸を切ります。写真に写すのを忘れましたが「綾」の両側にもしっかり紐を通して、崩れないようにしています。
この日は50本整経して時間切れでした。
Kさんが使う予定の織り機には、綜絖(そうこう)が足りませんでした。
そこで、予備の綜絖を取り出して、織り機にセットします。
私の織り機は糸綜絖ですが、これは金属の綜絖です。
足りなかった綜絖を、セットしました。
この織り機(というか、最近の織り機はどれもか?)は、経糸を巻いておく男巻き(織り機の後部にある)にも、織りあげた布を巻き取る女巻きにも、あらかじめ布が巻いてあります。その布に直接経糸を結びつける場合もあるのですが、教室の織り機は、その布にさらに補助糸を足してあります。
織物では、織りはじめの糸と織り終わりの糸が無駄になるのですが、補助糸をつけているとほとんど無駄が出ません。そのうえ、綜絖通しの順番が変わら織り方をしている限り、補助糸を綜絖に通しっぱなしにしておけば、綜絖通しの手間も省けます。
そこでKさんもこれから足した綜絖に補助糸通し、筬にも補助糸を通しておいてから、筬の手前で整経した経糸と補助糸を結ぶという工程になります。
2024年1月28日日曜日
倒木の始末
昨日は久しぶりに山仕事をしました。
もう、1年以上前に倒れたコナラの木ですが、昨冬はまだ枝がしっかり張っていて、どこから手をつけたものやら、近づける雰囲気ではありませんでした。
だいぶ朽ちてきたので、冬のうちに少しずつ片づけようと、まず枝をチェーンソーで短く切って、一カ所に積み上げました。
坂道に軽トラックを持ってきて乗せ、焚火場まで運ぼうというのです。
昨年、軽トラックを新調しました。私たちとしては、史上最高の美車です。
これまで、3台の中古(中古々)車の軽トラックを乗りつぶしたのですが、ありとあらゆるものを乱暴に乗せ、乱暴に走りまわり、どの車も酷使に耐えてくれました。
3台目は、ドアが曲がってきちっと閉まらず、シートは破れて中の綿がはみ出し、荷台の脇板は曲がったり蝶番が壊れていたりという、集落一のおんぼろ車でしたがよく働いてくれました。ところが、エンジンの調子がちょっとおかしくなった時点で、思い切ってクーラーのついている、これまでとしては最高の状態の中古車を買いました。そして、どこも傷ついていないので、大切に乗っていました。
さて、切り落とした枝を運ぶのに、夫に手伝ってもらおうと声をかけました。坂道に軽トラックを停め、
「私が渡すから、荷台に積んでくれる?」
と訊くと、
「そこから、直接投げればいいだろう」
と、夫が言います。
「だって、投げたら車が傷がつくじゃないの。だから、受け取って乗せて」
「ばか、軽トラックは何のためにあると思ってるんだ。投げろ!」
「えぇぇ、だったら、もっと小さく切っておくんだったなぁ」
「貸せ、おれがやるよ」
ということで、長い枝も重い幹も高いところからバサッと投げられて、乱暴に積まれてしまいました。
現場は急な斜面で足場が悪かったので、焚火場の横で、さらに枝を短く切りました。
やれやれ、運んだ枝が片づいてきました。
太めの枝は、薪にしようと短く切って薪置き場に積みました。
薪にするほどでもない枝は焚火場に積み上げて、風のない日に燃やしましょう。
で、夜中にふと気づきました。
強い風が吹いたとしても、理由なしで太い木が倒れたということは、病原菌か虫か、何か理由があったはずなのに、そんな木を薪として積んでおいてよいのかと。積んだ薪は、今年中には使わないでしょう。となると、虫や病原菌が広がってしまう、すぐ燃やすべきです。
というわけで、今朝は早くから焚火しています。
今日はMちゃんとどんど焼きに行く予定だったのですが、とりあえず倒木をすべて燃やし切らないことには落ち着かないので、そちらはキャンセルさせてもらいました。
倒木現場は少し片づきましたが、まだまだ太い木がたくさん残っています。かなり急な斜面の上、落ち葉が積もっているので滑りやすく、作業しにくいのですが、何とかもう少しやっつけたいと思っています。
約2時間後、新しく足した太い木以外、ほぼ燃やすことができました。
倒木現場は、まだこんな感じです。
2024年1月27日土曜日
ブレスト(?)のマトリョーシカ
ブレストのマトリョーシカ、でしょうか?
民族衣装の上にショールのようなものを羽織っています。
『マトリョーシカ アルバム 2019』(道上克著、2019年)で生産地の地図を見ると、マトリョーシカの生産地はソヴィエト連邦の西の方に固まっていますが、中でもブレストは最西端に位置しています。
右は、花柄のブレストのマトリョーシカで、頭の形は違うけれど、お顔、色使いなど雰囲気が似ています。
後ろ姿です。
花柄のマトリョーシカの底には、USSR(ソビエト連邦)のラベルが残っていますが、左には残っていません。
道上さんの『マトリョーシカ ノート3』によれば、このラベルは1970年代後半から80年代前半のものだそうです。
『マトリョーシカ アルバム 2019』より |
『マトリョーシカ アルバム 2019』に紹介されている、ブレストの1970年代から90年代のマトリョーシカです。
同上 |
それ以前、1960年代にブレストでは、セルギエフ・パサードの絵柄に似たマトリョーシカがつくられていました。
頭は丸いのは、三角になる前でしょうか?
小さい娘まで、丁寧に絵つけされています。
2024年1月26日金曜日
メコンの本その5、母なるメコン
『The Mekong Currency』は、タイのNGOのProject for Ecological Recovery(PER、生態系回復プロジェクト)とTERRA(何の略だったか忘れた)が企画、メコン川流域を様々な角度から見て、その豊かさを記録し、これらを大切にしようという目的で、1992年に出版した本です。
直訳すれば「メコン通貨」という名前ですが、どういう意味か深く考えもせず、The Mekong Currencyのまま受け入れていましたが、メコン川流域に広く流通しているものとか、メコン川流域に共通しているものとか、そんな意味だったのでしょうか。
昔のことでうろ覚えですが、PERとTERRAは、2つの名前を持った1つのNGOで、名前が2つあったのは、活動内容を分けていたからだったと記憶しています。環境調査と政策提言・啓蒙運動などを分担して活動していて、タイの英字紙『NATION』も支援していました。
1990年代には、PER/TERRAが、タイ国内だけでなく海外のNGOsと連携して活発に環境保護活動をしていました。この本も、カンボジア、ラオス、ヴェトナムのインドシナ三国がやっと西側に対して鎖国政策を解き始めた1992年にいち早く出版されています。写真を撮ったLiesbeth Sluiterは、PERの西洋人スタッフの一人だったのだと思います。
章立ては、ラオス、タイ、カンボジア、ヴェトナムとなっていて、それぞれの地域の生活が紹介されています。
プノンペンの写真は1990年ごろのものです。
当時、道路を走る車はほとんどなく、古い建物しかありませんでした。このあたりは、すっかり変わっていて、私の住んでいた1990年代の終わりごろでさえ、すでに道路はバイクに埋め尽くされていました。
当時、タイに環境保護のNGOのPER/TERRAができたのは福音と感じましたが、何をなすことができたでしょうか?
環境に依拠した人々の暮らしを守ろうとしたものの、結局は資本主義の大きな波には勝てず、ラオスやボルネオ島の原生林は伐られ、ゴムやヤシのプランテーションが広がり、あちこちにダムがつくられて、生態系も人々の暮らしも大きく変わってしまいました。
資本主義とは、メコンをただの天然資源と見るものです。
しかし、それだけでは片づけられない、メコンは流域の人々の生活を何千年も支えてきた、母なる川です。
環境に依拠した人々の暮らしを守ろうとしたものの、結局は資本主義の大きな波には勝てず、ラオスやボルネオ島の原生林は伐られ、ゴムやヤシのプランテーションが広がり、あちこちにダムがつくられて、生態系も人々の暮らしも大きく変わってしまいました。
資本主義とは、メコンをただの天然資源と見るものです。
しかし、それだけでは片づけられない、メコンは流域の人々の生活を何千年も支えてきた、母なる川です。
2024年1月25日木曜日
『メコン・黄金水道を行く』
『メコン・黄金水道を行く』(椎名誠著、集英社、2004年)は、『インドでわしも考えた』のメコン川版と言ったところでしょうか。
ちなみに、『インドでわしも考えた』は、堀田善衛の『インドでわたしは考えた』のパロディーだと書こうとして、念のため調べたら、あれっ、堀田善衛の本は『インドで考えたこと』(岩波新書、1957年)という表題で、私の思い違いでした。まさか、題名を変えたわけではないでしょう。となると、「インドで私は考えた」は文中に出てくる言葉だったかもしれません。
いきなり脱線しましたが、私は椎名さんの写真が好きです。くすっと笑わせてくれる軽い文も嫌いではありませんが、写真が好きです。椎名誠的着眼点が面白いし、カメラプロ感のない写真とでも言おうか、1枚1枚、楽しんで撮っている空気が伝わってくるような写真ばかりです。
まず、目次の前の巻頭の写真がこれです。ヴェトナムの水上マーケットの八百屋さんの看板。水上がごちゃごちゃと混みあっていても、遠くからでも八百屋をさがすことができるというわけです。
そしてこれ、大ヤモリ、トッケーの笑っている写真です。
トッケーはしっぽまで入れると30センチくらいあるヤモリで、「トッケー、トッケー」と鳴き、家やレストランなどの壁や天井にいて、たまにどさっと落ちてきます。
もちろん、メコン川を辿っているのですから、川の写真もあります。
川は、洗濯して、水浴びして、そして生活用水をバケツに汲んで家まで担いでいくという生活の中心であり社交場でもある、椎名さんは「川端会議」と呼んでいます。
大人や子どもでにぎわっている、漁場の写真もあったのですが、滝に仕掛けられた簗(やな)が面白くて、この写真を選んでみました。
ナマズはかわいい、そしておいしい。
暑いはずなのに、涼風が感じられます。
ここは雨季には冠水する土地だそうですが、椎名さんは犬を撮りたかったに違いありません。『街角で笑う犬』(朝日新聞社、1990年)という犬ばかりの写真集、本棚をちょっと探しても出てきませんでしたが、椎名さんは犬好きです。
あとがきの最後は、
メコンの旅は贅沢だった。自然と人間のからんだ地球規模的な歴史の絵巻物をかいま見たときめきがふんだんにあったからである。
と、くくられています。