2024年8月31日土曜日

ラタンの長椅子にこだわる

夫はafさんの居間に、ラタンの長椅子を置くよう設計しています。


我が家の椅子よりちょっと長いものです。我が家の長椅子を注文したのは14年前でした。
かつて、熱帯ではラタンが一番手に入りやすく、加工しやすく、ラタンの家具はとても一般的でした。しかし、熱帯林の産物であるラタンはいまや集めにくくなり、安いものならプラスティック、あとは金属に木を組み合わせた椅子などが一般的になっていました。


かつてラタンの家具屋さんが並んでいたあたりに今もある家具屋を軒並み調べてみましたが、どこも定刻に開いてなかったり、開いていてもラタンの家具は扱っていませんでした。家具屋さん、あまり繁盛してない?

ネットで、郊外に1軒ラタンの家具屋さんが見つかったのですが、電話すると木曜日にしか話の分かる人(店主)が帰って来ないとのこと、木曜日はタイを去る日でしたが、ここに希望をつなぎました。
都心から離れていて、行き方も難しそうだったので、一度見ておいた方がいいと、土曜日にバンコクに詳しいHさんと、Uさんもご一緒して、タクシーで下見に行きました。


店は閉まっていましたが、中にラタンの家具が見えます。


ここが優先順位筆頭となりましたが、安心はできません。村から帰った水曜日に、スマホで見つけたほかの店も、訪ねてみましたが、ラタンの家具を製作してくれるという店は見つかりませんでした。

そして木曜日、まだ返してなかったレンタカーで、バンコクの複雑な道を走り(ナビのおかげ)、郊外の家具屋SARNNに行きました。約束の時間の10時には早かったのですが、店が開いていて、図面や写真で説明すると、図面通りにつくって日本に送ってくれることになりました。目的達成です!


しかし、ここで、小躍りして喜んではいけません。店主はラタンもどきでつくることを考えていたのです。
上の写真の家具はすべて、アルミニウムのフレームに、ラタンもどきのプラスティック材料をかぶせてつくったもの、現在はこれが主流で、長持ちすると喜ばれているのです。


上の写真では、本物のラタンを使ったのは、手前のロッキングチェアだけでしょうか?


この丸椅子は本物のラタン製。細い(最近の)ラタンは弱く、我が家の長椅子のラタンのようにすぐ切れてしまうので、この丸椅子と同じの太いラタンを使ってつくってもらいます。
アルミニウムのフレーム+ラタンもどきでつくるのが一番安いのですが、本物のラタンではアルミニウムのフレームを使うことが出来ず、木のフレーム、棒ラタンの座(マットの下に渡す)、そして本物のラタン張りにすると、最初の見積もりの6割り増しくらいになってしまいました。出来上がりは約1か月後とか、もちろんマット(クッション)もマットカバーも含まれています。

かつて、息子の家の長椅子をつくろうとしたとき、フレームは木で自作しましたが、ラバーフォームはネットで買いました。高反発の硬いものはたいへん高額で、しかたなく中くらいの固さのものにしましたが加工できるのは決まった厚みのラバーフォームを直方体に切るだけで、背もたれを斜めのマットにしたかったのですが、それはできませんせんでした。
また、座面と背もたれで8個のマットのカバー制作は、知り合いの家具屋さんに見積もりしてもらったら、カバーだけなのに、なんと13万円ほどと算出されました。
「うそっ!」
仕方なく内カバーは自分でつくって、外カバーは専門の店ではなく家具屋さんの知り合いの素人さんにつくってもらったのですが、それでもラバーフォームとカバーの両方で10万円近くなってしまいました。


さて、息子の家の長椅子は昨年5月ごろ出来上がっていますが、ずるずると出来上がった、というかまだ出来上がってないと言うか、そんな状態だったので、ブログの記事にはしていませんでした。
まず、厚い合板でフレームを2つつくり、それに板を渡して長椅子としました。


寸法に切って送られてきたラバーフォームには、内カバーを自分でつけ、さらにつくってもらった外カバー(右手)をかぶせました。


外カバーは、値段を抑えるために、家具屋さんの余りものだったという2色の布を使っています。背もたれのマットは、写真では寝ていますが、もちろん立てて使っています。

さて、自分でつくってさえこの値段、そしてこの出来上がりと比較すれば、高いとはいえ、ラタンの長椅子はとてもよい買いものでした。ラタンの家具はタイのみならず世界から消えつつあるし、タイ以外にはこの椅子をつくる技術がないし、これ以上の選択はなかったかと思われます。


これは、昔のタイのインテリアの雑誌に載っていた写真です。
寸法を告げるだけで、どこの家具屋さんでもつくってくれたものですが...、今は昔です。





2024年8月30日金曜日

再会

昨日、5泊7日、1機内泊のタイへの旅から戻ってきました。
私にとっては、かつてタイ人の同僚たちや農民たちと、大きな希望を持って立ち上げた農村生活改善活動の地を訪れることがおもな目的、夫にとっては着工したばかりのafさんの家の長椅子を見つけて注文することと、


好きなおそば(クイッティオ・ナーム=ビーフンスープ)をいっぱい食べることがおもな目的でした。

訪れたい農村は、中央部北のチャイヤプーン県のワンヤイ村とヒンダート村、東北部ブリラム県のサクーン村、そしてもう一つ、夫がその変貌を見たがった、森林破壊がひどかった北部ナーン県のナーファン村がですが、お互いに遠く離れていて、全部まわると約1600キロ走らなくてはなりません。短い期間でそれはちょっとたいへん、結局、一番会いたい人のいる、会える可能性の高い、片道が約370キロのチャイヤプーン県だけにしました。


訪問3日目に、レンタカーをして、タイ好きの女性Hさん、Hさんの友人の建築家のUさんも一緒に、チャイヤプーンを目指しました。昔からの道である、国道2号線から21号線に入り、225号線を通って、街道沿いのパクディチュンポンという町を目当てに行くつもりでしたが、今はスマホのナビがある時代、往路はグーグルのナビに従って行くと、これまでまったく通ったことのない道を通りました。新しくできた広い道もあるのですが、それとそれをつなぐ細い道もあり、わくわくする、とても楽しい旅路でした。
復路は、昔ながらの225号線から21号線に出て、一路バンコク目指して南へ走ったのですが、幹線はだだっ広い片側2車線(バンコクに近づくに連れて3車線)の殺風景な道路になっていて面白味はまったくなく、行きだけでもナビに従ってよかった、二倍楽しめました。


さて、これがパクディチュンポンの中心です。
かつては細い通りで、道路わきにがらんとした平屋の市場の建物があり、そのわきにぽつぽつと店や家があるだけ、食堂さえ市場の中にしかなかった町は大きく変貌していました。町の中心部の2キロほどは中央分離帯のある片側2車線の道路になっていて、両側には店やレストラン、「リゾート」という名の簡易宿などが建ち並び、大きな病院もできていました。
かつては道路沿いに建物があるだけで、一歩脇に入ると人工物が何もないところでしたが、今は奥へと広がって町は線から面となっていて、市場は街道から1キロも入ったところに移転して、青空市場になっていました。


かつて、市場の中の食堂(屋台みたいなもの)で食べることが出来たのは、チャーハンか、カオパッ・パックラパオ(いわゆるガパオライス)だけ、昔をしのんで町の食堂でカオパッ・パックラパオを食べてみましたが、すっかりおしゃれな一皿になっていました。


さて、パクディチュンポンからそう遠くないと思っていたワンヤイ村は、15キロ離れていました。やっとたどり着いたらここも変貌、家々は新しく、緑は深く、舗装道路もできていて、私たちが拠点にした改善活動の中心となった事務所跡地は、村のお寺になっていました。
この写真、境内の赤い屋根の本堂が見えるあたりに事務所がありました。


そして、研修センターがあったあたりには、サーラーと呼ぶ、みんなが日常的に集まる建物が立てられていました。お寺の諸行事を行う場所兼村の公民館といったところでしょうか。
このサーラーの入り口でピチットさんの家を尋ねると、
「ピチットならお寺にいるよ」
とのこと、まさにここで、ピチットさんのお母さんの没後8年の法要が行われるようとしており、ピチットさん一家や村の人たちが集まっていたので、30年ぶりに再会することができました。


ピチットさんのお父さんが亡くなったのは1990年ごろだったか、お母さんとピチットさんがすっかり気落ちしたので妹のノイさんが一時的に一緒に暮らしていたのですが、そのとき泊めてもらった私は、ピチットさんの家族全員と合計7人もで川の字になって寝ました。7人で横に並んで寝るのは壮観な眺め、忘れられない思い出です。
大好きだったお母さんも8年前に亡くなり、今はピチットさんはノイさん一家と一緒に暮らしています。

ピチットさん一家はもともと、バンコクからそう遠くないコーラート高原に住んでいましたが、その村の人口が増え、農業が立ちゆかなくなって、1970年末に新天地を求めて山の中への移住を決め一家で移ってきました。
すでに結婚していたピチットさんでしたが、両親を大切にするタイ人のこと、夫婦どちらもその両親と離れられず、ピチットさんの前妻は、離婚して親と残ることを選びました。妹のノイさんは、ワンヤイ村に移ってから結婚、1980年代の終わりごろ、私が彼らに初めて会ったころは、ピチットさんは両親と暮らし、ノイさん一家は2人の子どもたちと近くの家で暮らしていました。


前列左がノイさん、その右が娘さん(名前を忘れた)、中列左から2人がノイさんの息子さんと娘さん、あとは村の人たちです。
初めて会ったとき、ノイさんの息子のムウはちょうど今のノイさんのお孫さんくらいの年、ノイさんの娘さんは、黄色い服の女の子よりずっと小さな幼女でした。


さて、そんなパクディチュンポンで泊まったのはチャルニーという名のリゾート、正面に見えるのがレンタカーした車です。
バンコク市内から郊外にかけての、急な割り込みや無理な車線替えなどなど、何でもありの混雑した道は、そんな道の運転が得意な夫が運転して、どこまでも走るだけの、夫にとってはたいくつで眠くなる道は、私が運転しました。


チャルニーリゾートにはこんなバンガローが5棟建っていますが、お客は私たちしかいませんでした。誰がどんな目的でパクディチュンポンに来るのか(近くで山登りする人がいるらしい)、日本なら瞬く間につぶれそうですが、食堂やらなにやらいろいろ複合経営しているに違いないタイだから、お客さんがいればよし、いなくても大丈夫なのでしょう。ちなみにお代は、エアコンとシャワー付き、ダブルベッドで1人250バーツ、1,000円ほどでした。


翌日、ヒンダート村を訪ね、こちらは変貌が激しく家が建ち並んでいて、探しに探してやっとプラスートさんに会えました。
バンコク暮らしが嫌で、ここにきて農民になり、素晴らしい畑や田んぼをつくっていたプラスートさんもおそらくは働きすぎ、ピチットさんと同じように足を悪くしていて、小さな何でも屋をやっていました。

30年と言えば人生の3分の1から半分ほど、誰もが変わってしまうのは当たり前です。ピチットさんもプラスートさんも、そして私も年取りましたが、あのときの幼女が母親に、しかも肝っ玉母さんになっているのは素晴らしい、命が脈々と流れているということです。
もう彼らと会うことがないかもしれないけれど会えてよかった、「またね」と別れました。






2024年8月22日木曜日

出番ですよ!

タイに行くにあたって、着るものは、できるだけかさばらず軽い服を少しにしましたが、田舎に泊めてもらうなら(ウィチット、達者でいるか?)寝間着が要るかしら? タオルも要るかしら? そうだ、パッカマーも持って行こう! 水浴びするならサロンも要るし。と、荷物はだんだん膨らんでしまいました。


履物は、どうしましょう?
ウオーキングシューズを履いて行って、ときにはビーチサンダルに履き替える?
いや、これ以上荷物を膨らましたくありません。それに、いつも靴を履いているなんてまっぴらです。


というわけで、もう20年以上履いていないサンダルを引っ張り出してみました。
左はパレスチナのエルサレムの旧市街にある靴屋さんのオリジナルサンダル。履きやすかったので、デザイン違いで何足も持っていましたが、カンボジアで暮らしているうちに全部履きつぶしてしまって、これが最後の1足です。
そして右はプノンペンの靴屋さんでつくってもらったサンダル、紙の上に足を乗せ、左右別々の足型をとって、色や形は好きに指定したり選んだりして、一から手づくりしてもらったものです。
パレスチナのサンダルの方が底が薄くて軽いのですが、小指にかかるベルトの位置がちょっと悪いのか、履いてみると、左足のおやゆびだけ変に当たります。ではと、右のプノンペン製のサンダルを履いてみると、裸足でもどこも痛くありません。そちらを履いていくことにしました。


夫も、プノンペンでつくってもらったサンダルを持っています。
八郷暮らしは夏でもサンダルを履く機会はなく、遠くへ行くなら革靴、作業するなら安全靴、散歩するならウオーキングシューズ、普段は足が夜露で濡れたりしないよう、甲がカバーされたサボを履いて過ごしているので、このサンダルも出番がなく、20数年間、靴箱で眠っていました。
「靴下を履かなきゃ痛いんじゃないの?」
「大丈夫だと思う。履いてみて」
「あっ、痛くない」
「でしょう?」


このサンダルは、足首だけでなく、指のところもマジックテープで自在に調節できる優れものです。


というわけで、二人ともプノンペンの小さな靴屋さんにつくってもらったサンダルで旅してきます。

では、明日から1週間ほどブログはお休みします。





2024年8月21日水曜日

10年ぶりのタイ

タイに行くことになりました。
短い滞在ですが、バンコクで古い友人たち(日本人やタイ人)と会い、また、かつてのプロジェクト地であった中部チャイヤプーン県の山間の村にも行こうとしています。グーグルマップで見ると、村のあたりも村に一番近い市場町も大きく変貌していて、街道沿いには新しい施設や家が建っています。
会いたい人たちはどう暮らしているのでしょう?
30年近く連絡もしなかった(できなかった)まま、村の名前だけを頼りにして、はたしてたどり着けるかどうか、そして会いたい人たちに会うことが出来るかどうか、お年寄りも若かった人たちも存命かどうか、何もわからないまま訪ねます。

とりあえず、お土産としてクッキーやゼリーなどを用意したのですが、結構目方もあり、かさばってこれ以上持って行けません。格安チケットなので、預け荷物なし、手荷物は1つで重さは7キログラム以下の約束、用意したより人数が多かったときのためには、軽くてかさばらない、手ぬぐいを用意しました。



手ぬぐい絵本は、右が簡単に綴じてあって、絵本になっています。


日本語が読めない人でも、綴じてある糸を切って、手ぬぐいとして使えます。


そして普通の手ぬぐい。
手ぬぐいはタイの浴用布パッカマーよりずっと小さいけれど、マフラー代わりにならすることができます。


タイではレンタカーをするので、しばらく前に国際運転免許証を取得するために、警察の交通課に行きました。
「免許証返納の窓口はこちら」と大書きされた窓口の横に国際免許証の手続きの窓口があり、いかにも免許証返納しそうな老夫婦が国際免許を申請したので、係の方たちは笑いを噛みこらえていたかもしれません。
35年前には、タイではオートマチック車を見ることはありませんでした(あるところにはあったのかもしれませんが)。それが今ではレンタカーがある時代、隔世の感があります。レンタカーはマニュアル車かしら? オートマチック車かしら?
スマホのシムカードはタイ仕様のものを前もって買っていて、スワンナプーム空港で入れ替えてもらいます。すると、スマホでナビ機能が使えるのかしら? 使えるとしたら何語で入力するのかしら? 
新しい経験がいろいろ待ち受けていて、不安は通り越して、ちょっと楽しみです。






2024年8月20日火曜日

マタタビの笊


骨董市で、マタタビで編んだ笊を見かけました。
直径21.5センチ、深さがないので蕎麦笊としては小さすぎますが、
「えっ、こんな笊に出逢うなんて!」
とびっくりしました。我が家にある「美しすぎる」マタタビの蕎麦笊と、つくり方が同じですが、縁巻きの編み目がそろってない、正円ではないなど、つんとすましてない愛嬌があります。
値段を訊いたら300円でした。


右はその、美しすぎる蕎麦笊です。
よく見ると、右の笊は表皮をそのまま見せているので、太いマタタビの蔓を薄くはいでひごをつくったもの、左の笊は細い蔓を割ってひごをつくったものと思われます。左の笊のひごは、表皮が両脇にかすかに残っているものもありますが、ほとんどのひごは皮がありません。おそらく、細い蔓なので、表皮を残すとひごの厚みが厚くなりすぎるので削り取ったものでしょう。


表皮のついていないひごを薄くすると強度が落ちるのか、左の笊のひごは右の笊のひごより厚みがあるようです。ひごの薄い右の笊は、ひごとひごがよくなじんで凹凸が少なく仕上がっていることが、陰影のつき方の違いからわかります。


中心(底)を四角く網代に編んだひごが、そのまま経材(たてざい)として縁まで続きますが、左の笊の場合、底を四角く編んだひごは14+14本で28本、それに比べると右の笊は、22+22本=44本と、直径がそう違わないのに圧倒的に多いので、縁で経材が密になり、結果美しく仕上がっています。

長野の根まがり竹

中心(底)を網代で四角く編んでそれを経材とし、緯材(よこざい)で風車のように編み上げていく技法は、福島県奥会津のマタタビ細工だけでなく、長野県や関東各地に見られ、材料もマタタビだけでなく根まがり竹や、真竹らしいものも使われています。

おそらく茨城の籠、真竹

形によっては、途中まで風車のように編んだ後、途中から平編みで編み上げたもの、

福島県三島のマタタビの籠

早い段階から平編みにして編み上げたものなどあります。

蕎麦笊としては小さすぎるので何を入れようか、チョコレートを盛ったりするのもいいかもしれません。





 

2024年8月19日月曜日

地鎮祭

縁あって、夫がafさんの家を設計させていただいていますが、昨日地鎮祭がありました。
我が家を建てたときは、地鎮祭は自分で勝手にやったので、神職を招いての地鎮祭を間近に見るのは初めてでした。


まず、篠竹を伐って来て、1間四方に立てました。その中に北向きに祭壇をつくり、竹には綱を張って結界をつくります。
祭壇は3段、そして三方が6つ置かれ、それぞれにお供ものが置かれます。このあと、紙垂(しで)のある場所に、「奉鎮祭」と書かれたお札が置かれました。


結界の外には土を盛ってサカキを立てます。
山に生えているサカキより葉が大きいので不思議に思い、何の木かと訊いてみたら、ホンサカキ(本榊、真榊ともいう)だそうです。ホンサカキは日本、朝鮮、中国などの原産で、神職は
「自生しないから、神社で育てている」
とおっしゃいましたが、西日本には自生もしているようです。西日本に自生するなら、小さいころ見たことがあったはずですが、すっかり忘れています。
また、このあたりの山に自生している、葉の小さいサカキは、ヒサカキ(非榊、あるいは姫榊)というのだそうです。


儀礼は、神さまに降りてきていただくところからはじまり、つつがなく執り行った後、神さまには帰っていただきました。木の鋤と鍬は、地を掘って家を建てることの承諾を得るため、小山にした土の山を均すのに使いました。


神さまへのご供物は、上段左奥からするめと昆布、お米、お神酒、下段奥から水、果物、そしてきゅうりとナスとなっています。
儀礼中は、水とお神酒の容器の蓋は開けられていました。


最下段にはお祓い用のサカキが置かれ、儀礼が進んだところで参列者が奉納した玉串もおかれました。
写真の箱に中には、15ミリ角ほどに切った紙が入っていて、塩、お神酒とともに、敷地の四方に向かって撒かれました。


地鎮祭は滞りなく進みましたが、最終盤にかかったところで、私は不覚にも脳貧血をおこしてしまい、最後まで持たせようと我慢していたのですが限界にきて、途中で椅子に座らせてもらってしまいました。
小学生のころ、校庭での長い朝礼で立ちっぱなしでいるのが苦手で、ときどき脳貧血を起こしたのを、久しぶりに思い出してしまいました。

なお、神職はここから全貌が見渡せる足尾山の足尾神社の宮司さんでした。






2024年8月18日日曜日

猪力


また、イノシシにやられてしまいました。
ごろた石を敷き詰めていたところと、二段の石段になっていたところが、掘り返されてぐちゃぐちゃです。
やっと今頃気づいたのですが、最近、雨の夜には必ず来ています。


同じ場所を下から見たところ、イネ科の雑草は、抜いても抜いても増える雑草で、この辺りは日陰になりにくく、したがって草むしりが追いつかず、手の届いてなかった場所を掘り返されました。
手ごわい雑草の根がむき出しなので、掘り返されながらも、根を拾えるというちょっとした楽しさも味わってしまいましたが。


その下の石段も、やられています。


ここは前にも掘り返されたのにまだ復元できていなかったところ、


この階段も、一番下の段が掘り返されています。


タカサゴユリも何本も倒されていましたが、とくに根を食べられてはいないようです。
八郷の花のヤマユリが、イノシシに根を食べられて減っていると聞くし、我が家でもオニユリの根を食べられたことがあったのですが、タカサゴユリの根は食べられてはいないようです。


昨夜も雨、またほかのところを掘り返されていました。
今夜は雨が降りませんように。