2016年11月17日木曜日


仮設の木工室として使っていたビニールハウスを壊したとき、パイプのジョイント金具を外すとともに、取り払わなくてはならなかったのが、各種の蔓です。
ヘクソカズラ、ヤブカラシ、アオツヅラフジ、などが、ビニールハウスの壁に沿ってどこまでも地表すれすれの地下を這い、パイプというパイプにのぼってからみついていました。

蔓は強く、手で引きちぎろうとしても、切れません。
うっかりしていると、そこここに浮き上がった蔓に足を取られて転びそうになります。


あまりにもうっとうしいので、片づけと並行して、ときおり蔓を刈り取り、丸めて、焚火場に持って行かなくてはなりませんでした。

蔓たちと格闘していていて、先日知った、「水口細工(みなくちざいく)」を思い出しました。


水口細工は、経糸(たていと)にはアオヅヅラフジの蔓を使って、緯糸(よこいと)にはクズの若い蔓の中皮を使っています。
私がいつも邪魔にしている植物、どこにでもある植物を使っていたのです。また、細かく綴る繊維としては、在来のワジュロを使うそうですが、これも切っても切っても生えてくるものです。
蔓やシュロはかつて、大いに役立っていたのです。 
水口細工は、滋賀県甲賀市水口地方で、すくなくとも江戸初期からつくられた細工もので、長く水口の主要産業でした。
ところが、1960年代(昭和40年ごろ)に完全に途絶え、材料、加工法、編み方、すべて闇の中に入ってしまいました。
1990年ごろから、それを惜しんだ有志による復元が試みられ、十余年の試行錯誤を経て、やっと復元されました。


水口細工は、江戸時代には参勤交代をはじめとして、東海道を旅する人々のお土産として珍重されました。長崎にいたシーボルトは、江戸に赴く途中(1826年、文政7年)で、水口細工をつくる人々を観察した記録を残しています。
幕末には、なんと年間7万点以上の籠などがつくられていたそうです。


明治になると水口細工の海外輸出が企てられ、欧米で大層な人気を呼びました。
当時の新聞には、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどから、一度に数万点もの注文が入ったという記録があり、町を挙げて生産に取り組みました。 
輸出品は、帽子、キャンディボックス、イースターエッグの箱など、西欧の好みに合わせてバラエティに富んだもの、色も鮮やかな品もつくるようになり、時流に合わせた商品開発も盛んで、戦後もそれは引き継がれました。
 
ところが、高度経済成長期に入り、水口町周辺に多くの機械や電気の部品工場が進出すると、水口細工の職人たちはこぞって転職してしまいました。
材料を採る、材料を加工する、編むなど工程は分業されてたので、職人たちが抜けていくと、水口細工はシステムとして立ち行かなくなり、需要があるというのに衰退してしまいました。
もちろん、あまりにも日常的な作業だったので、制作方法が記録されることもなく、世代が代わるとき受け継がれることもなく、やがて、地域全体から水口細工の存在すら忘れ去られてしまいました。


それを、材料を科学分析して特定し、蒸したり、発酵させたりと加工法を試み、編み方を試行錯誤して、復元には十数年かかったといいます。
蔓たちを眺めながら、水口細工のような、失われた技術はたくさんあるんだろうなと、思ったことでした。






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