2018年4月26日木曜日

面桶(曲げ木の箱、1)

瀬戸内で育ったせいか、小さいころ曲げ木の箱を見たことがありませんでした。
弁当箱はアルマイト、おひつは桶づくりのものでした。
曲げわっぱの存在を知り、使うようになったのは、大人になってからでした。

曲げわっぱのお弁当箱と言えば、いまでは日用雑器というより、ちょっと高級なイメージがあります。
ところが、『文明開化がやって来た チョビ助とめぐる明治新聞挿絵』(林丈二著、柏書房、2016年)を見ると、曲げ木の箱は「面桶(めんつう)」と呼ばれていた雑器で、明治のころには、どんなに貧乏して、家財道具がほかには何もなくても、誰もが持っていたもののようでした。
「へぇぇ!」
曲げ木のことを、知っているようで知らなくて、びっくりでした。
この本は、明治の新聞挿絵を、「路上な目線」で林丈二さんが観察した本で、林さんの手にかかれば、すっかり世の中からは忘れ去られた事実が、あぶり出し絵のように浮き上がってくるのです。


明治16年10月7日の「絵入朝野新聞」掲載の挿絵です。
「絵入朝野新聞」は、文字どうり「絵入り」の新聞で、貧乏な家族を一回読み切りで紹介した実話物語が、毎日のように載っていました。

これは、元は深川六間堀で古着屋をやっていた、六右衛門さん(56歳)一家の話です。病気がちの六右衛門でしたが、女房のおこと(45歳)が目を病んで失明したため、幼い二人の子どもたちを、仕方なく奉公に出しました。
子どもたちの働きでなんとか暮らしていましたが、やがて夫婦二人で大病を患い、やっとよくなったと思ったら、明治14年の火事で焼け出されてしまいます。
子どもたちが給金を前借して、浅草の裏長屋の部屋を借りてくれ、なんとか暮らすことができましたが、六右衛門がまたもや病気再発して困窮するという、果てしない貧乏物語です。
壁が崩れ落ちた部屋へ、孝行な兄妹が駆けつけている絵ですが、わずかに残っている家財道具のなかに、炭入れとして使っている面桶があります。

余談ですが、当時のせんべい布団には、稲わら、反故紙、ぼろなどが入っていたそう、七輪も、割れたのを反故紙で繕ってあります。


さらに、面桶の参考資料として、二枚の絵が載っていました。
物乞いをしていても面桶が必要なので、大切に持ち歩いていたのです。


面桶を施しの受け皿として使うだけでなく、これで白湯(水)を飲んだり、食事もしていたのでしょうか?
二人とも、寝具にするための菰と面桶、あとは竹の杖と竹の尺八を持っているだけです。

曲げ木の産地は、青森(曲げ物)、秋田(曲げわっぱ)、静岡(めんぱ)、長野(めんぱ)、三重(尾鷲わっぱ)、福岡(博多曲げ物)などです。
産地の近くだけで売られたり、手づくりのものを使っていたのだとばかり思っていましたが、明治時代には、東京でも広く売られていたことがわかります。








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