2019年3月14日木曜日

『祈りの画集』

Gさんに、読み終わった『東京新聞』を回しています。
Gさんの家は山奥で、昔は今より道も悪く、新聞配達が行けなかったからです。
15年ほど前、我が家は『朝日新聞』から『東京新聞』に変えましたが、その後Gさんは、両方読みたいと、Nさんから『朝日新聞』ももらっています。


そんなGさんが、最近『朝日新聞』に連載された、野見山暁治先生の聞き書きを切り抜いて持って来てくれました。
私が野見山先生が好き、野見山先生の文が好きなことを覚えていてくれたのです。
ちなみにGさんは、田中小実昌が好きで、小実昌夫人の実兄が野見山先生であることを、知っていました。


野見山先生のご本はいろいろ読んだので、この連載聞き書きに書かれている内容はほぼ知っているものでしたが、『祈りの画集』がとても不評だったことは、初めて知りました。


『祈りの画集・戦没画学生の記録』(野見山暁治、宗左近、安田武著、日本放送出版協会、1977年)ができたのは、NHKの番組が契機でした。
画集をつくるにあたって、野見山先生は全国の遺族を回って話を聞いたり絵を見せてもらったりしたのですが(経緯はこの本に詳しい)、だんだん自分だけ生きているという後ろめたさにたまらなくなり、やめたいと思うようになります。
しかし、「では代わりの人を紹介して欲しい」と言われ、友人にこんな思いは押しつけられないと思いなおし、最後までご自分の足で歩かれました。


画集が評判が悪かったというのは、遺された絵に家族の姿や故郷の風景などが多く、「戦時中なのにのどかなモチーフばかり」というものだったそうです。
なんという、心無い評判だったのでしょう。
戦時中の緊迫感を描いてくれていたらよかったなんて、身勝手すぎます。


野見山先生は、戦地に向かう彼らが、心ににじむものや日常を描くのは当然で、これらの絵を彼らの「生きたかのあかし」ととらえていらっしゃいます。


幸い、野見山先生はその後窪田誠一郎さんと出会い、一緒に全国を回って絵を集め、20年後の1997年の、無言館の設立にとつながりました。

先生は現在98歳、東京と福岡を行ったり来たりされていますが、来年末から、100歳記念の展覧会を開く計画を進められているそうです。








6 件のコメント:

  1. 姐さん
    いつの時代でも短絡する人が多いです。
    私もそんな方からコメントが入ったことが、、、
    「東京新聞」なつかしいなー
    昭和17年6月新聞社の統合があり
    当時の国民新聞と都新聞が
    「東京新聞」名になりました。

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  2. 昭ちゃん
    えっ、そうなんですか?
    何も考えていませんでした。『中日新聞』の東京版かと(笑)。
    夫も私も、育った家は生まれる前から『朝日新聞』でしたが、私が家を離れてから私の実家では弟が『東京新聞』もとることになり、以後ずっと二紙だったので、知っていました。
    我が家でも『朝日』でしたが、ここに来た頃、広告の多さと社説にいよいよもって嫌気がさし(笑)、『東京』にしました。3.11以後は、原発事故の報道などが信用が置けるということで、『東京新聞』に切り替えた人が多いようです。
    『東京新聞』は、はっきり言って、書評が面白くないのが欠点です(笑)。

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  3. 当時外務省のプレス関係の部署だったので、、、
    東京日日新聞も「毎日新聞」になり地方紙も統一されました。
     戦時中からプレスコードは厳しい状態でしたが(戦局報道)
    今でも同じですよね。(笑い)


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  4. 昭ちゃん
    今は自主規制というか、読者が喜ぶニュースしか載せない気がします。

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  5. 子供たちの笑顔と高齢者の元気な姿を映す
    テレビでも新聞でも同じですよね、
    あれだけ騒いだ「原発廃止」も、、、、

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  6. 昭ちゃん
    同感バイ。

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