2020年1月4日土曜日

美しかった生活

毎日の生活は昨日の繰り返しにすぎません。
1年、2年単位ではその違いがあまり見えませんが、5年、10年のスパンで振り返ると、とんでもなく違った生活になっているのに気づくことがあります。
ICの開発と普及は、21世紀になって世界中の人々の生活を劇的に変えてしまいましたが、1960年代、日本でいえば高度経済成長期の生活変化にもすさまじいものがありました。
何百年も遅々として変わりのなかった日々の生活が、短期間に激変したのです。

九州北部、炭焼き窯

お正月に、ブログ友の昭ちゃんが、炭焼き小屋の写真を送ってくださいました。
昭ちゃんのお連れ合いは炭焼きさんの娘さん、そのご両親は谷川に近くに、沢の石を拾って石焼き窯を築いて、あたりの雑木を切り出して炭にする、炭焼きを生業にしていらっしゃいました。
雑木を切りつくしたら、また別の土地に移り、そこに窯を築いて炭を焼くという繰り返しだったようでした。
戦前、戦中、戦後は1960年代くらいまでのことと思われます。

さて、高度経済成長期に失われてしまった生活文化を知る書物はいろいろありますが、我が家には、生活を写真で残した本があります。『写真で見る日本生活図引』(須藤功編、弘文堂、1994年)のシリーズです。
その本の中に、炭焼き生活の写真があるかしらと見てみましたが、残念ながら見つかりませんでした。

 

『写真で見る日本生活図引』は、全部で9冊組です。
私はそのうちの、縮小版5冊、『たがやす』、『とる・はこぶ』、『あきなう』、『すまう』、『つどう』しか持っていないので、もしかしたら私の持ってない本に、炭焼きが載っているのかもしれません。
しかし、持っていないのは、『まち』、『たたずまい』、『わざ』、別巻『村の一年』なので、どれにも炭焼きが載っていない可能性もあります。
もし載っているとしたら、『わざ』でしょうか?

炭焼きだけでなく、どの村にもあった瓦焼きや、鍛冶屋などの写真もありませんでした。
がっかりしながらも、この本を久しぶりに見直したのですが、炭焼きの載っていない不満はすぐ忘れて、これらの写真に見る、生活の隅々までの美しさにほれぼれしてしまいました。
ということで、炭焼きのことはいったん置いておいて、『写真で見る日本生活図引』の中の第1巻、『たがやす』の中から、その素敵な写真をご紹介してみようと思います。

肥だし、秋田県仙北郡、1960年

当時は、今と比べると貧しく、労働はきつかっただろうと思うものの、きつい労働によって得られる喜びも今とは比べものにならないほど大きかったのではないか、写真で見る人々の顔は、どれも喜びに満ちています。

代掻き、岩手県岩手郡、1957年

柄振押し、秋田県湯沢市、1961年

田植え、岩手県二戸市、1957年

田植えは、地域によっていろいろな形がありました。

湿田の田植え、山形県赤湯市、1958年

湿田に冬のあいだ、山から土を運んで入れている映画を見たことがありますが、土を入れても入れても改善されず、中には胸までつかるような湿田もありました。
田下駄を履かないと田植えができないほどではなくても、膝まで埋もれるような湿田は全国に多く、私も成田で、田植えの手伝いに行ったら足が抜けなくて、これが本当の足手まとい、手伝いどころではなかった経験があります。

田植えの少年、秋田県湯沢市、1963年

小中学校には農繁休みがあり、田植え、稲刈りには小学生も大きな戦力でした。

たばこ、秋田県湯沢市、1959年

「たばこ」とか、「いっぷく」は、たばこは吸わなくても休憩の意味でした。

一仕事終えて、秋田県湯沢市、1958年

それにしても、早乙女たちのいでたちの美しさに感動です。ひざ下は濡れているというのに、ものともしていません。

水揚げ、秋田県横手市、1958年

稲が育つ時期、田んぼに用水路から水を入れるための水車を踏むのは、おもに子どもの仕事でした。
最初は水の抵抗がないので空回りするので、支えにしっかりと捕まって落ちないようにしなくてはなりませんが、水を揚げはじめたら楽なもの、ぼんやり景色を眺めたり考えごとをしたりしながら踏んでも、水はどんどん田に広がっていきます。

秋の稲田、秋田県湯沢市、1960年

刈り取った稲を干したあと、脱穀、籾摺りと続き、稲わらは俵、むしろなどいろいろなものに加工されます。

豆うち、新潟県南魚沼郡、1955年

『たがやす』には、田んぼだけでなく畑や焼き畑、蕎麦、麦、稗、大豆、馬鈴薯、除虫菊、三椏などの栽培の写真も載っていましたが、ついつい、もっともなじみの深い稲作の四季を追っていたら長くなってしまったので、このへんでやめます。






8 件のコメント:

  1. 春姐さん良い写真ばかりですね、もう一つ無くなった物に生活の音や
    街の音がありますね、
    朝は新聞や牛乳配達から始まり通学の子供たちの嬌声です。
    市場の雑踏やミックスした匂いまで私はいつも一つの単位を20年と考えています。
    これは「勝 海舟」も言ってます。

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  2. 追伸
    猫の手も借りたい一番忙しい時期は「筑後さん・ちっこさん」と呼ぶ田植え専門の
    出稼ぎの姉さん達が来ていました。暗いうちから暗くなるまで、
    当時・昭和20年後半ごろ一日たしか4千円ぐらい、
    当時イタリヤ映画「苦い米」ドラマ映画ですが共通場面が、、。

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  3. 昭ちゃん
    炭焼きはまくらだけです(笑)。
    田植え姉さんたち、昭和20年後半に1日4000円は高くないですか?400円じゃないですか?
    私が学生時代、昭和40年前後にアルバイトをして、1日800円はちょっといい方だったような気がします。

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  4. 払った人から聞きました広大な田圃を三日間です。
    確かめようがないです。
    農家が尺祝いするほどカネ持ちの時代です。

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  5. 春姐さん突っ込んだ話はブログには書けませんよね、
    気安い農家の方がおられたら当時の農家が大変だったこと、「尺祝い」や「誘蛾灯」
    「大きくなった農協」「毎年揚がる米価」などお聞きください私はそのあとでお答えします。
    「炭窯コメントを書いていますが」正月なので暫く、、、。

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  6. 昭ちゃん
    昭和20年後半、私の住んでいた倉敷ではイ草をつくっていて、イ草の刈り入れ時には四国から「日傭取りさん」が来ていました。
    確かに、農地解放があって、農家はイケイケだったとは思いますが、やっぱり一日4000円は無理な気がします。うどん一杯20円くらいでしたから。
    しつこくて、ごめんね(笑)。

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  7. 証言が取れないけれど持って帰った金額なら納得できますね、
    こちらでは佐賀がイ草でこれも大変ですね。

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  8. 昭ちゃん
    絡んじゃってごめんなさいねm(_ _;)m
    持って帰った金額だったら納得です。たぶん、宿とまかないはついていたでしょうね。

    イ草労働も今では刈り取りは機械だろうし、刈ってすぐの「どろ染」も、昔のように田んぼに穴を掘ったりしないだろうから、労働は軽減されていると思いますが、昔は大変でした。

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