2021年9月16日木曜日

児島の正御影供(しょうみえく)

『日本の伝承切り紙』の最後の写真、岡山県の花笠の写真のところに、自分も小さいころ、祖母と母に花笠をつくってもらったような気がすると書きました。
すると、従妹のきょうこちゃんから、それは「正御影供(しょうみえく)」の稚児行列の花笠ではないかという手紙をもらいました。初めて聞く言葉です。
正御影供とは、弘法大師の命日とされる旧暦3月21日に、高野山を中心に執り行われる真言宗の盛大な仏教行事(法事)ですが、岡山県児島郡(当時)では、郡内の真言宗のお寺が持ち回りで正御影供を執り行いました。そして、私の祖父母は児島郡粒江にあった西明院の檀家だったので、正御影供の稚児行列に、幼かった私が参加して、花笠を被ったのではないかというのです。
きょうこちゃんは岡山市内で育ったのですが、お連れ合いがなんと私の卒業した小学校の同窓生で、結婚後は祖父母の家があった近くにお住まいです。

「正御影供 児島郡」と入力してネットで調べてみたら、小さな村の小さなお寺だと思っていた西明院がホームページをつくっていたので、びっくりしました。
しかも西明院は、平城天皇の御代(延暦25年ー大同4年、西暦806ー809年)に、弘法大師が諸国遊歴のおり、ここで虚空蔵求聞持法を修しようと造立したと書いてあります。ということは、1200年も歴史のあるお寺だったのです。そんなに歴史のあるお寺だとは考えたこともありませんでした。

児島郡の寺々のご住職たち


ホームページには、昭和9年に行われた正御影供の写真が載っていました。


やはり同じ年の、リヤカーに乗せた御神体と稚児さんたちの写真もありました。
私も、同じような姿で稚児行列に加わった可能性があります。


西明院の境内には、先陣庵という小さな庵があります。
約800年前の寿永3年(1184年)、源平合戦の藤戸の戦いがありました。
私の祖父母が住んでいたところは、児島湾から西に伸びた汐入川である吉岡川のほとりで、北にも南にも低い山並みがあったのですが、源平の戦いの当時は、そこは海でした。吉岡川の名前にもなった吉岡の西に低い山がポツンとあり、亀島と呼んでいましたが、合戦の当時は、本当の島だったのです。


平家軍は南岸にいましたが海に隔てられていたので、源氏軍は馬では渡って来られないだろうと思い込んでいました。しかし、源氏の武将佐々木盛綱は、地元の浦の男、与助から平家の陣地まで馬で渡れる浅瀬を聞き出し、夜のうちに笹を立てておきました。そして、情報が漏れることを恐れて、与助を斬り捨ててしまいました。


翌朝、盛綱は立てておいた笹を頼りに浅瀬を渡り、先陣庵が建つ場所に上陸、これに続いた源氏軍は激戦の末に平家軍を破り、盛綱は先陣の功を称えられました。
後日再び盛綱がこの地に入ったおり、浅瀬の在処を教えて貰いながら斬り捨てた浦の男、与助や双方の戦死者を弔って建立した先陣寺が、時の流れで庵になったそうです。

盛綱の物語は、あの辺りでは誰もが知っているお話でした。
小学5年生の時だったか、学芸会で私より1学年上の人たちによって、この物語が演じられました。息子を捜し歩いて気がふれた与助の母親を演じた女の子の真に迫る演技に、たくさんの見物人が涙したこと、薄っすら記憶にあります。ちなみにこの女子は毎年、学芸会の花でした。

さて、西明院はただの田舎寺(失礼!)でしたが、そこから遠くない藤戸寺は近隣からも人が集まる大きなお寺でした。藤戸寺は天平年間(729-748年)に建立しましたが、応仁の乱以後戦国時代まで、たびたび兵乱によって戦火に見舞われました。岡山藩の領地になってからやっと安定、伽藍が整備され、本堂は1781年に再建されています。
毎月21日、お大師さまの日には市が立ち、近隣の人たちは誘い合ってお参りしました。祖父母の家から藤戸までは川沿いに道があるものの、お大師さまの日は遠回りして山沿いを歩き、途中のお地蔵さまや西明院に寄ってお参りしながら、藤戸寺まで行きました。
今考えると、山沿いにあった塚や庵などは、吉岡川流域がまだ海であった頃からそこにあった、古いものだったのかもしれません。







2 件のコメント:

  1.  どうしてこんなに話がつながるの
    ナムサダンこれがめちゃ好きです。  大笑い

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  2. 昭ちゃん
    だから、9月13日の「本棚の掃除」をしっかり最後まで読んでみてください。
    そこに書いてあるからです。でも、本当にその話は終わりです(笑)。

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