ヴェトナムのフランスからの独立戦争がアメリカの参入でラオスとカンボジアを巻き込むことになったヴェトナム戦争が、1975年に解放戦線の勝利で終結しました。
カンボジアでは、プノンペン解放に喜んだのもつかの間、ポルポトの恐怖政治がはじまり、人々を絶望のどん底に突き落としました。
私がカンボジアにいた1998年から2001年にかけて、ポルポトの傷を負ってない家族は皆無と言えました。
ポルポト時代
2001年6月15日
ポルポト時代の4年間に、局地的ですが1度だけ雹(ひょう)が降ったそうです。N(私の働いていたNGO)のスタッフのナリンは、毎日、「ああ、氷が食べたい」と思っていたので、とても嬉しかったと言っていました。
ポルポト時代と言えば、普段そんな話はしませんが、訪問者が聞きたがることがあり、みんなポルポト時代のことを聞かれるのを嫌がらず、よく話してくれます。ナリンは教師だったお父さんが殺され、リツも郵便局勤めのお父さんが殺され、キムスアは両親と兄弟2人が亡くなって残ったのはおばあさんと妹だけ、などなどです。
農村の人たちも別の村に強制移動させられた |
先日はラオスからの訪問者が来て、ポルポト時代についての質問があり、同席していたチョムランに初めてポルポト時代の話を訊きました。彼はプノンペンに住んでいた都会者で、両親と兄弟3人の5人家族でしたが、農村に逃げてからすぐに家族と離れ離れにさせられてしまいました。プノンペンに住んでいたことをひた隠しに隠し、4年間を切り抜けましたが、ポルポト時代が終わってみたら、助かったのは自分だけだったそうです。
話をしてくれるスタッフたちは35~38歳くらいですから、当時は10代だった者が多く、女性も含めてほとんどの人が運河掘りをやらされていました。1日に1人6立方メートル掘らなくてはならず、最初はとても掘れなかったけれど、やがて掘れるようになったそうです。月夜の晩は夜まで掘らされたと話した女性スタッフは当時を思い出して、話しながら涙ぐんでいました。
でもチョムランが嘆くには、あれから20年経った今、経験は風化し、子どもたちにポルポト時代の話をしても、まったく信じようとしないそうです。
1990年ごろ、カンボジアの上を飛行機で飛ぶと、広い範囲にわたって、1キロメートル四方のグリッドに掘られたポルポト運河が、まるで国土に碁盤の目をかぶせたようにはっきりと見えました。
また、2000年ごろになっても、まっすぐに掘られたポルポト運河の名残を目にすることもありました。農業国にしたかったとはいえ、わりと平らな土地とはいえ、たくさんの人が飢えに苦しみながら掘った碁盤目状の用水路が、使われる日が来たとしても、実際に役に立ったかどうかは大いに疑問です。
ポルポト運河は、かつての自分の村に帰った人々によって別の使い方をされ、2000年ごろには、上空からポルポト運河を目にすることは、ほとんどなくなりました。
「私の生まれた村」(1998年)、バン・ナッ(1947年生まれ)作 |
さて、訪問者は、地雷については必ずと言っていいほど訊いてきました。
確かに、町では地雷によって手や足をなくした人を見かけない日はないくらいだったのですが、地雷が撒かれたのはポルポト派が抵抗していた西部、タイ国境に近い方で、1990年代の終わりには、地雷撤去もだいぶ進んでいました。
地雷
2000年8月13日
日本は暑い日が続いていると聞きますが、お元気ですか?このところ日本からの訪問者が多いのですが、みんな日本の方が不快だと言っています。プノンペンの8月は雨が降ったりするので4月のような暑さはありません。
日本からの訪問者はたいてい、「地雷に気をつけろ」と言われてくるようです。しかし、カンボジア訪問者が地雷にあたるのは、日本に行った外国人がキタキツネに遭遇するより難しいことでしょう。
2001年5月27日
日本から来る訪問者のほとんどが村に行くと、「地雷はどこにあるのですか?」と訊きます。パレスチナ=テロリスト、カンボジア=地雷と思っているのです。以前は、「この辺りにはありませんよ」と言っていたのですが、最近は、「踏みたいですか? あっ、そこに埋まっています」とか、「そこは行っちゃだめですよ。ちょっと地雷を踏んでみます?」などと、からかっています。
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